【あらすじ】映画『流浪の月』を観て感じた、「『見て分かること』にしか反応できない世界」への気持ち悪さ
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「見て分かること」に”しか”反応できない世の中に、私はいつも絶望感を抱いている
私は基本的にいつも、世の中に対して絶望的な気分を感じている。シンプルに、イライラしているのだ。それは、多くの人が「『見て分かること』に”しか”反応していない」ように感じられるせいである。視覚に限定しているわけではなく、「五感で感じられること」に”しか”反応できないことに苛立ちを覚えているのだが、やはりその中でも視覚が最も大きなウェイトを占めていると思う。なので、この記事では「見て分かること」という表記で統一する。
別に、「『見て分かること』に反応する」こと自体に嫌悪感を抱いているのではない。そういうことに”しか”反応できない状態が許容できないのだ。話をしていても、「◯◯が可愛かった」「あそこにできた◯◯が△△でさぁ」「テレビで見た◯◯が△△だったんだって」「◯◯が美味しかった」みたいなことしか口にしない人多いように感じてしまう。別にそういう会話がダメだと言いたいのではなく、そういう会話”しか”していないことに絶望してしまうのだ。
そんな社会だからこそ、「”誘拐”した文」と「”誘拐”された更紗」の関係も成立し得ない。
そういう社会が、私は嫌いだ。
文に「なんだか生き返ったみたい」と吐露する更紗
更紗は映画の中で、2度この言葉を口にする。最初は文と出会ってすぐ、そして2度目は文と再会してすぐだ。
2人は「ロリコンの大学生・文が10歳の更紗を誘拐した」という関係として世間的には知られている。そのニュースは日本中で報じられ、彼女が「誘拐された被害者」であることが周知の事実として知られる世の中を更紗は生きている。
そんな「被害者」である更紗が、「加害者」である文と話すことで「なんだか生き返ったみたい」という感覚を抱くのだ。”普通”に考えればあり得ないだろう。
しかしこの映画は、それを「あり得る」に変えてくれる作品なのだ。
私は最初から、更紗の「なんだか生き返ったみたい」という言葉に強く共感してしまった。私も日常的に、そう感じることがあるからだ。私の主観では、世の中のほとんどの人が「見て分かること」にしか反応していない。そういう人と喋る時、私はなんだか発狂しそうになってしまう。そんなわけで、時々「この人とは話が通じる」と感じられる人と会話する機会があると、「なんだか生き返ったみたい」という感覚になるのである。
最近印象的だったのが、3年ぶりぐらいに連絡が来て、飲みに行った年下の女性との会話だ。私とは一回りぐらい年齢が離れており、別に共通の趣味があるわけでもなく、そもそも3年間1度もやり取りをしていなかった。そんな人と久しぶりに会話をした後、相手から「久々に人間と喋った」と言ってもらえたのだ。これも、「なんだか生き返ったみたい」を言い換えた言葉だと思えばいいだろう。
私も、「人間と喋った」という実感を得られなければ、なかなか「生き返る」ことができない。言い方は悪いが、「『見て分かること』に”しか”反応しない人」は、私には「人間」ではなく「ゾンビ」のように見えてしまう。なかなか「人間と喋った」とは感じられないのだ。
映画『流浪の月』ではこのような感覚を、「誘拐の『被害者』として扱われ続ける更紗」という特殊な主人公を配置することで描き出す。しかし、更紗が抱く感覚は決して「特殊なもの」ではない。少なくとも私の周りには、「なんだか生き返ったみたい」「久々に人間と喋った」という感覚を共有できる人が多少なりともいる。
更紗は「『被害者』であることを強要される」という環境で育った。そして今もそういう状況にいる。映画の中に、そのことを示唆する場面が多いわけでは決してない。しかし、映画の冒頭はまさにそういうシーンだし、ある場面で更紗が口にする、
というセリフもまた、彼女が歩んできた人生を想起させる言葉だと捉えていい。
”誘拐”された更紗が文と過ごす子ども時代の場面では、更紗はとても天真爛漫に振る舞う。しかしそれは、「子どもらしい天真爛漫さ」というより、「更紗という人間に備わった天真爛漫さ」に思える。更紗の振る舞いは10歳の子どものそれではない。どことなく大人びた雰囲気が感じられる。しかしそこに、天真爛漫さが垣間見えるのだ。それは更紗が固有に持っている天真爛漫さだと私は思う。
しかし更紗は、その天真爛漫さを封印しなければならなかった。何故なら彼女は「誘拐の被害者」だからだ。
更紗は、同棲している恋人にそう言ってみる。本当はたぶん、「私は『被害者』なんかじゃないよ」と言いたかったんだと思う。しかしそんな風に口にしても無意味だと分かっている。だから、相手に伝わるかもしれない言葉で、「そうじゃないんだよ」と伝えようとしたのだ。しかしやはり、彼女の感覚は伝わらない。「誘拐された『被害者』なんだから可哀想に決まってる」という、他者からの視線の根底にあるものを拭い去ることはできないのだ。
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