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【あらすじ】映画『悪は存在しない』(濱口竜介)の衝撃のラストの解釈と、タイトルが示唆する現実(主演:大美賀均、西川玲)
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「凄まじいものを観た」という感覚がとても強い。映画『悪は存在しない』(濱口竜介監督)は一体何を描き出していたのか?
ラストの衝撃に、今も困惑させられている
「さっきの話なんですけど」
「うん」
「野生の鹿って、人を襲うんですか?」
「襲わない」
「でも時々、奈良の鹿が人を襲ったとかってニュースになったりしますよね」
「あれは人に慣れすぎてるだけ。野生の鹿は襲わない」
「絶対に?」
「絶対に。鹿は臆病だから、人を見れば必ず逃げる。可能性があるとすれば、半矢の鹿かその親」
「ハンヤ?」
「手負いって意味。逃げられないとしたら、抵抗するために襲うかもしれない。でも、あり得ない」
「でも、人を怖がるっていうなら、そもそも、グランピング場を作ったら鹿も近づかなくなるんじゃないですか?」
「……その鹿はどこへ行く?」
「どこって……どこか別の場所」
「……」
ということなのだろう。恐らく。それ以上のことは分からない。
本作を観た者は、誰もがきっと「ラストの展開」に衝撃を受けるはずだ。そして、困惑させられる。自分は今、一体何を観たのだろうか? 何がどうなって、この”異様な”展開がもたらされたのだろうか? ずっと「静」だった物語が一気に「動」へと変転したかのようなラストに、観客は放心するしかない。
しかしどうにかその意味を掴みたいと思い、先のやり取りを思い出したというわけだ。このやり取りを踏まえれば理解できる、かもしれない。
そんな衝撃的な映画なのである。本当に、何なんだろう、この映画は。
鑑賞中ずっと、『悪は存在しない』というタイトルを意識させられ続けた
本作についてはとにかく、『悪は存在しない』というタイトルが実に秀逸で絶妙だと思う。何故なら観客は、観ている間ずっとこのタイトルのことを意識せざるを得ないからだ。「悪とは何を指すのか?」「それは本当に存在しないのか?」「今目の前で展開されているのは悪ではないのか?」など、ワンシーンワンシーンをこのタイトルに引きつけて捉えたくなってしまうのである。
本作では、様々な「悪らしきもの」が映し出されていく。その最も分かりやすい対象が、「自然豊かな土地にグランピング場を開発しようと考えている東京の芸能事務所」だろう。「事業計画を出せばもらえる」と作中で言及されるコロナ助成金が使えるということで、畑違いの事業に手を出そうとしているのだ。社長は、「コロナ助成金が使えて、金儲けできるなら何でもいい」ぐらいの感覚であり、グランピング場にさほど思い入れがあるわけではない。そしてそのような状況で、それまで芸能の仕事をしていた社員2人が、グランピング場の担当を任されたのだ。
2人は、既に事務所が土地を買っている長野県水挽町の建設予定地へと出向き、住民説明会を開く。この事業にアドバイスするコンサルにそう言われたからだ。そして彼らはこの住民説明会をきっかけに、事務所がやろうとしているグランピング場計画に一層不信感を抱くようになった。住民からの指摘が実に真っ当だったため、「『助成金をもらっているから』なんていう理由で突貫工事を行っていいのだろうか?」と考え始めたのだ。
さて、「自然豊かな土地にグランピング場を建設する」という設定だけ聞くと、「住民との対立」が描かれるような印象を抱くのではないかと思う。しかし本作は、そんな分かりやすい展開を用意してはいないのである。住民側は決して「何がなんでも絶対に反対」というわけではなく、「少なくとも、今の計画には不備がありすぎる」と指摘しているに過ぎない。そして芸能事務所の2人は、そんな住民の意見の妥当さを理解し、「もっと住民の意向に沿った形で進めていくべきだ」と考えるようになっていくというわけだ。
このように、「悪らしきもの」が描かれながらも、実はそこには「悪は存在しない」という構図が描かれていく。まさにタイトルが示唆する通りの状況と言えるだろう。
また、先程の「鹿」の話にしても同じだ。冒頭で引用した会話は、実務を担う芸能事務所の2人と、地元で便利屋を行う主人公との会話である。2人は、事務所の方針に反して「もっとこの土地のことをよく知ろう」と考え、区長から「何かあれば彼に聞くといい」と言われた便利屋に教えを請うことにした。そしてその中で便利屋が、「あの土地は、鹿の通り道なんだ」という、住民説明会の時には出なかったことを話し始めたのだ。
2人は最初、「鹿が来るなら塀を作らないといけないか?」と聞いた。しかし便利屋は、「野生の鹿は2mはジャンプするから、塀を作るなら3mはないといけない。でも、そんな塀がある土地にグランピングに来たいと思うのか?」みたいに返す。便利屋はさらに、「反対してるわけじゃなくて、単純に分からないんだ」と、ここでも「決して頭ごなしに反対しているわけではない」という姿勢を見せるのである。
そしてその後で、冒頭で引用したような「そもそも鹿が怖がって逃げるなら塀も要らないだろうし、だったら、鹿の通り道であることが悪いことには思えない」みたいな話になっていくというわけだ。こちらについても、先程とはまた違った意味合いではあるが、やはり『悪は存在しない』というタイトルを強く意識させる状況だと言えるだろう。
「この土地を離れなければならないかもしれない」という微かな示唆
さて、冒頭で引用した鹿に関する会話は、別の示唆も与える。そしてそれは、「グランピング場を作るなら、俺たちはこの土地を出ていくかもしれない」というニュアンスであるように私には感じられた。
先述の通りだが、「鹿の通り道」に関する話の中で、「鹿が人間を怖がるなら、グランピング場が出来たらそもそも鹿は近づかなくなるかもしれない」という意見が出た。確かにそれはその通りかもしれない。しかし便利屋としては当然、「その鹿はどこへ行くんだ?」と考えてしまう。鹿がそこを通るのは彼らなりの必要性があってのことなのだから、そこがグランピング場になり近づけなくなってしまえば、鹿は困るはずだ。しかし、そのような想像が及んでいない実務担当の2人は、「どこか別の場所へ」と、何も考えていないことが伝わる返答をしてしまう。そしてそれに対して便利屋は沈黙で返すのである。
この時の便利屋の沈黙に、何か重い意味が含まれているように私には感じられた。そしてそれは、安易すぎる捉え方かもしれないが、「グランピング場が出来たら、ここに住む者たちはどこに行けばいいんだ?」というニュアンスではないかと思えたのだ。そう感じた理由の1つに、住民説明会の中で議論になった「水」に関する話がある。
住民説明会の中で質問が集中したのが「合併浄化槽」についてだった。恐らく、「生活排水や汚水などを処理するタンク」みたいなものだろう。その設置場所や処理能力などに関する疑問が多く出されたのだ。そしてそこには、水挽町の住民が抱く「水資源の豊かさ」への自負が関係している。
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