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【実話】映画『ハドソン川の奇跡』の”糾弾された英雄”から、「正しさ」をどう「信じる」かを考える

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「正しさ」は、「誰がどう信じるか」で変わる。「空気」に支配される社会で、私たちはどう生きるべきか

「正しい」という言葉を使うことは、とても難しい

私たちは、「空気が善悪を決める社会」に生きている。この点については、日本在住歴の長いフランス人が母国との比較で日本社会を分析した『理不尽な国ニッポン』という本の記事で詳しく触れた。

フランスなど欧米各国では、「ルールとして明記されていることは守る必要があるが、それ以外に制約はない」という。不倫や
買春などのスキャンダルを引き起こしても、テレビや芸能の世界ではなんの影響もないそうだ。法律に触れる行為を行えばもちろん罰せられるが、法律に触れないなら倫理的にマズイことでもまったく問題なく許容される。

日本はそうではない。ルールとして明記されていないことでも、「社会の空気」が許すか許さないかを決めるからだ。法律に抵触していなくても、直接の被害者が何も言っていなくても、そんなことは関係なく社会は怒り、断罪する。

もちろん、世の中のすべての事柄において法の規定が間に合っているわけではない。だから、「法に触れなければ何をしてもいい」と考えるのはどうかと思う。しかしやはり、「なんでこんなことでネットが炎上しているんだろう?」と感じる機会はとても多い。私には、誰もが自分の「正しさ」の枠から出ようとせず、個人的な「正義」を振りかざしているようにしか見えないのだ。今の時代は、それがどれだけマイナーな主張でも、ネット上で必ず一定数の支持者を見つけることができる。「どんな主張をしても支持してくれる人が必ずいる」という安心感も、今のような状況を生む要因となっているのだと思う。

私は、そういう世の中に生きていることを、とても嫌だなと感じる。

「人によって『正しさ』は異なる」というスタンスをスタートラインにしなければ、何も始まらないはずだ。私はそう信じている。どんな場面であれ、「私の言っていることが正解だ」「自分の考えが間違っているはずがない」などという主張は「独裁」でしかないし、民主的なスタンスとはとても言えないだろう。

自分が思う「正しさ」とは異なる「正しさ」も世の中には存在し、私はそれを許容できないが排除もしない。誰もがそんな風に考えることでしか、人間の共同生活は成り立たないはずだ。

だから私は、「正しい」という言葉をとても慎重に使うようにしている。そもそもなるべく使わないようにしているし、使う際には、「◯◯の条件では正しい」「これが正しい可能性が高い」など、断定的にならないようにしているのだ。

世の中では「論破する」という言葉が当たり前に使われるし、プレゼンやYoutubeなどでも、結論をぼやかさずに断言する人の方が「デキる人」に見えがちだと思う。ただやはり、私は嫌いだ。戦略として敢えて「断言する」など、使い分けを意識しているならいいと思うが、「断言することが何よりも大事」と考えてそういう振る舞いしかしない人間を、私は好きになれない。

私は、物事を断言したり、「正しい」という言葉を躊躇なく使う人を「想像力がない」と判断する。それはただ、視野があまりに狭く、ごく一部の「正しさ」しか見えていないに過ぎないのだ。自分が見えている「正しさ」がすべての「正しさ」であると考えるのは、あまりに知性がないと思う。「私には見えていないところにも何かがあるはずだ」と考えることこそ知性であり想像力であるはずだ。

何かを「正しい」と断言したり「間違っている」と決めつけたりすることは、「知性や想像力の欠如」を自ら露呈しているようにしか思えない。お笑い芸人・マキタスポーツの著書『一億総ツッコミ時代』中で、「『良い/悪い』より、『好き/嫌い』で語ろう」という提言がなされているが、本当にそうだと感じる。「良い/悪い」は「正しさ」の話だが、「好き/嫌い」は「趣味趣向」の話でしかない。「正しいかどうか」という上段からの構えではなく、「自分の気分を語る」という気楽さが、今の時代には必要ではないかと思うのだ。

もちろん、専門的な知見を持つ人は「正しい/間違っている」で語るべきだと思うし、他にも「良い/悪い」のやり取りの方が相応しい場面はあるだろう。しかしそうではないなら、「正しい」「間違っている」という言い方を日常の中で封印するのもアリではないか、とさえ感じている。

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