【勇敢】ユダヤ人を救った杉原千畝を描く映画。日本政府の方針に反しながら信念を貫いた男の生き様
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多数のユダヤ人を救いながら、外務省がその功績を闇に葬った杉原千畝の生涯とは?
この映画で描かれるのは、第二次世界大戦中にドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人を救うため、リトアニアの領事館員として大量のビザを発給し、外務省の訓令に反して多くのユダヤ人を救った外交官・杉原千畝だ。彼の名前やその功績については、多くの日本人がよく知っているだろう。しかし、その詳しい背景まで知っている人は、あまり多くないだろうと思う。
映画の冒頭は、1人のユダヤ人が日本の外務省を訪れる場面から始まる。「センポ・スギハラ」を探していると問い合わせるが、「そんな人物は存在しません」と言われてしまうシーンだ。
杉原千畝の本名は「すぎはら・ちうね」だが、リトアニアの人には「ちうね」は発音しにくかったそうで、自ら「せんぽ」と名乗っていた。名前が違ったから「そんな人物は存在しません」という回答になったという理由もあるとは思う。しかし外務省は、戦後まもなく杉原千畝に「退職通告書」を送付し、彼を辞めさせている。映画では、日本政府が杉原千畝の功績を認めたのは2000年のことだったと説明された。彼は1986年に亡くなったので、生前は、少なくとも国内では評価されなかったのだろう。このことも、「そんな人物は存在しません」という回答の背景にあったのではないか。
そんな杉原千畝が、どのような経緯でリトアニアに行き着き、そこでビザを発給することになったのか、その人生が描かれていく。
常に日本のことを考えていた杉原千畝は、いかに「ユダヤ人へのビザ発給」を決断したのか
結果として祖国に評価されずに生涯を閉じることになった杉原千畝は、常に日本のことを考えながら世界を見ていた。世界を理解することで、日本をもっと良くできると考えていたのだ。
だから彼は、モスクワ赴任を切望していた。モスクワを見ることで世界を知れると考えていたからだ。だから、モスクワに行くためならなんでもやってやるという気概を持っていた。
満州で関東軍と手を組んだのも、そのような思いからだったという。まず満州で何らかの成果を出す。そしてそれを足がかりにしてモスクワへ。そのためなら、関東軍と手を組むことも致し方ない。そう考えていたというわけだ。
そしてこの決断は大きな誤算だった。彼は、満州での出来事をきっかけに、結果としてソ連入りが果たせなくなってしまったのだ。モスクワを目指していた杉原千畝は、大いに失望したことだろう。
彼はその後、リトアニア行きを命じられる。領事館設立のために働きかけるようにとのことだった。諜報の天才だった杉原千畝は、言葉の通じないリトアニアで情報収集を開始し、その類まれな才能を存分に発揮していく。
そんなリトアニアで彼の目に映ったのは、大量のユダヤ人難民だ。彼らはどの国でもビザ発給を拒まれており、どこにも行き場がない状態だった。
ビザの発給には様々な条件を満たすことが必要で、杓子定規に判断すれば、ユダヤ人難民たちにビザを発給することなどできない。日本政府に問い合わせてもやはり、「条件を満たさない者へのビザ発給は認められない」との回答だった。
日本政府が「NO」と言っている以上、ビザの発給を決断すれば、外交官としての杉原千畝の人生は終わりだ。しかし、彼は考える。
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