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【芸術】実話を下敷きに描く映画『皮膚を売った男』は、「アートによる鮮やかな社会問題風刺」が見事

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「アートがここまで鮮やかに『社会問題』を風刺できるのか」と驚かされた、実話をベースにした驚愕の物語

メチャクチャ面白かった。正直なところ、「面白かった」と書くにはちょっと抵抗を感じる作品ではあるのだが、それでも「面白かった」と言うしかない作品だ。

アートが、これほど鮮烈に、これほど皮肉的に、これほどセンセーショナルに「社会問題」を風刺できるという点に驚かされたし、不謹慎だからこそ力を持つ映画だと言ってもいいだろう。

まずは内容紹介

シリアで恋人のアビールと電車に乗っているサムは、彼女と結婚したいと考えている。しかし裕福な家柄のアビールとの結婚はなかなか障害が多い。アビールもサムと結婚したいと考えているのだが、一方で、親を喜ばせるために望んでもいない見合いを受けなければならないという状況だ。

そんな現実を吹き飛ばしたいと考えたサムは、電車内で「彼女と結婚する!」と宣言、乗客たちと車内で大騒ぎする。しかしその時の発言が切り取られてネットにアップされ、サムは不当に逮捕されてしまった。どうにか警察署から逃げ出すことには成功したが、そのままシリアに留まることはできない。サムは姉の助けを借りて、レバノンへと逃れることに決める。

レバノンでどうにか働き口を見つけたサムは、食べ物にありつくため、呼ばれてもいないのに金持ちのパーティーに潜り込む日々を過ごしていた。そんなある日、パーティー会場で芸術家のジェフリーと出会う。彼は、サムがシリアからの難民だと知ると、酒でも飲もうと声を掛け、そして驚くべき提案をした。サムに「背中がほしい」と切り出したのだ。

サムは彼の提案に心が揺れる。レバノンに逃れた後も、彼はアビールと国際電話を続けていたのだが、彼女が不本意ながら見合い相手である外交官と結婚を決めたことを知ってしまった。サムの立場や現状を考えると、アビールとの関係が好転する可能性も期待できない。そんなことを考えて、彼は最終的に、ジェフリーの提案を飲むことにしたのである。

ジェフリーのアイデアは、常軌を逸したものだった。サムの背中にタトゥーを彫るのだが、その図案が「シェンゲンビザ」だというのだ。これは、「シェンゲン協定」を結ぶ地域内での通過・短期滞在者に与えられるビザであり、地域内を自由に移動できる証である。そんな証を彼は、難民としてどこにも行くことが出来ないサムの背中に彫ろうというのだ。

ジェフリーの発想は社会を大きく刺激した。サムは「人間」としては難民であり、どこにも行くことができない。しかし彼は、「作品」としてなら国外に出られるのだ。サムは「芸術作品」として様々な美術展で展示され、多くの観客の視線にさらされることになるが……。

映画が突きつける絶妙な「皮肉」

「人間の背中にタトゥーを彫り、芸術作品として展示する」というだけの話なら、「不謹慎」でしかないだろう。「人間そのものを展示している」のだから、議論が起こらないはずがない。まして展示されているのはシリア難民なのだ。映画でも、「シリア難民を搾取している」という批判が描かれるが、確かにそういう見方が出てくるのは仕方がないだろう。

しかし、この映画の設定がただ「不謹慎」なだけになっていないのは、ジェフリーが彫ったのが「シェンゲンビザ」であるという痛烈な「皮肉」にある。つまりサムは、「人間」としては「難民」という立場ゆえに国境をまたぐことができないが、「芸術作品」としてならどの国にも行き来が出来るというわけだ。この「矛盾」を、「難民の背中にシェンゲンビザのタトゥーを彫る」という非常に鮮やかな手法によって示すこの映画の設定は見事だと思う。

ジェフリーはこの「アート」の真意について、こんな風に説明している。

シリア人、パレスチナ人などは、外交上好ましくない存在として扱われる。
一方で、我々が生きる世界では、人間の行き来よりも商品の行き来の方が遥かに自由だ。

物語の中での話に過ぎないが、サムは「難民」としてはビザの発給が認められないが、「芸術作品」としてはビザが取得出来るのだ。私たちが生きる世界でも、同じ決断がなされる可能性が高いのではないかと思う。これが皮肉でなくてなんだろうか。

私は別に、「すべてのアートは社会問題を提起すべき」などと考えているわけではない。しかしアートには間違いなくそのような側面もある。そして、映画『皮膚を売った男』は、まさにその性質をこれ以上ないというレベルで突き詰めた、非常に挑戦的なリアリティを持つ作品だと思う。

映画を観ていて、なるほどと感じさせられたのは、「『サムというアート』を売る際の問題点」だ。映画でそう指摘されるまで私は思いつかなかったが、「サムを売買すること」は「人身売買」に当たると多くの国が判断する。確かにその通りだ。どれだけ「これはアートです」と主張したところで、実態は「人間」である。もしそんな理屈がまかり通ってしまうのであれば、「人身売買する予定の人間」に適当な絵を書いて「これはアートだ」と強弁すれば成立してしまうことになるだろう。さすがに、そんな世界が許容されていいはずがない。

シェンゲンビザが彫られたサムは、そのような点でも社会問題を提起する存在というわけだ。そして、そのような問題提起をもたらすからこそ、「サムというアート」には価値があるのだとも言える。しかしその価値は、「売ってお金に替える」という普通のやり方では計りにくい。そこに価値があることは間違いないのに、一般的な尺度でその価値を相対化することができない、という点も、非常に特徴的なのである。

様々な社会問題を、「背中にシェンゲンビザのタトゥーを彫る」という行為1つで浮き彫りにする鮮やかさが何よりも見事な作品だった。

ラストの見事な展開と、そこで初めて「実話ではない」と気づいた話

私はそもそもこの映画を、「実話を基にした作品」だと勘違いしていた。映画の後半に入るまで、ずっとそう思いこんでいたのだ。しかしある時点から、「あぁ、そうか、実話ではないのか」と気付かされた。実話だとしたらあまりにあり得ない展開になるからだ。しかし、そのような展開だからこそ、この映画の「本当の主題」が浮き彫りになるとも言える。非常に見事なラストだったと思う。

この記事では、ラストの展開について具体的には触れないが、「『サムというアート』が抱える『解決不可能な問題』を、『もはやそれしかない』という見事なやり方で解消するような展開になる」とだけ書いておこう。そして、ラストのこの一連の流れの中で、「システム」という言葉が出てくる。まさに「サムというアート品」は、世界の「システム」に対抗するためのアンチテーゼのような存在であり、「難民の背中にシェンゲンビザのタトゥーを彫った」という狭い捉え方に留まらない、より広い視点での指摘がなされるというわけだ。

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