【家族】映画『そして父になる』が問う「子どもの親である」、そして「親の子どもである」の意味とは?
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病院で子どもを取り違えられた2家族を描く映画『そして父になる』から、「家族とは何か?」を考える
『そして父になる』には、元になった事件があり、その顛末は、『ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年』という本に書かれています。
映画のエンドロールでは、この『ねじれた絆』は「参考文献」という表記になっていました。確かに、昭和52年に沖縄で起こった赤ちゃん取り違え事件と、映画の中で描かれる物語は、時代も状況も大きく異なるのですが、「2家族は会おうと思えば行き来できる距離に住んでいる」「一方では教育が熱心に行われ、もう一方では放任主義で育てられた」という似た側面もあります。映画を観た方は、是非『ねじれた絆』も読んでみてください。
『ねじれた絆』では、取り違えられた一方の子どもである少女に焦点が当てられる構成になっています。しかし映画は、福山雅治演じる「父親」の物語です。この点が最も大きな違いでしょう。そしてそれ故にこの映画は、「家族とは何か?」を強く問いかける内容になっていると感じました。
映画の内容紹介
野々宮良多は、妻のみどりからの報告にそう呟く。息子の慶多が生まれた病院から、話したいことがあると連絡が入ったのだ。都心の大手企業で働く良多は、収入も住んでる家もすべて、誰もが羨むような生活を手に入れた。しかし仕事が忙しいこともあり、息子と接する時間はあまり取れていない。
しかし息子の教育には非常に熱心だ。ピアノを習わせ、幼稚園受験もさせた。1人でお風呂に入るように伝え、挨拶にも厳しい。ピアノの稽古を休んだと知ると、「取り戻すのに3日掛かる」と妻を責めるが、自分は仕事のために自室に籠もる。世間的には羨ましがられる生活なのだろうが、家族としてのまとまりは薄い。しかし良多は、このような環境こそが息子のためだと信じているのだ。
一報、群馬で電気屋を営む斎木雄大は、長男の琉晴を筆頭に3人の子どもを育てている。勉強よりも「何でも1人で出来ること」を重視する、のびのびと楽しい生活だ。決して裕福とは言えない生活をしているが、家庭には常に笑顔が絶えない。大変なことは色々とあるが、妻のゆかりとも仲良くやっている。
この対照的な2家族に、「取り違え」という現実が突きつけられた。6年前、同じ産院で生まれた慶多と琉晴が取り違えられており、両家族ともそのことに気づかないまま育ててきたのだ。病院は謝罪と共に、「このような場合、ご家族は100%、交換を選びます」と伝えた。
野々宮家・斎木家の面々は大きく揺れる。
慶多の母・みどりはそうやって自分のことを責める。
良多にはこれまでずっと、「自分の子どもなのにあまり出来が良くない」という感覚があった。「取り違え」が発覚したことで納得感のようなものを抱きつつ、彼は「琉晴君も引き取らせてくれないか」と提案する。両親に対して不満を抱きながら子ども時代を過ごした良多は、「親」という立ち位置にまだ馴染めておらず、想像力に欠ける対応に終止してしまう。
当然だが、雄大はそんな良多の主張に納得できない。雄大は良多の「あり得ない振る舞い」を「父親として、さらには人間としてのあり方に何か問題があるのではないか」と捉えるほどだ。
雄大の妻・ゆかりも、
と、良多の「父親としてのあり方」に違和感を隠さない。
子どもたちはどうだろうか。将来的な「交換」を想定して、彼らに詳しい事情は伝えずに、互いの家への行き来が始まる。
慶多は、斎木家を気に入っている。はっきりと描かれる場面は少ないが、慶多はきっと父・良多に対して思うところがあるのだろう。だからこそ、斎木家で彼は「父親とはどういう存在なのか」を初めて実感することができたのだろう。
一方の琉晴は、自分が野々宮家にいなければならない理由が理解できない。彼は早く帰りたくて仕方ない。ここが自分の居場所ではないと分かっているのだ。
「取り違え」という現実が、多くの人の人生を様々な形で動かしていく。
そんな風に口にする良多こそが一番、「親子」「家族」の円環から外れてしまうことになる。
「血の繋がり」の重要さが、私にはイマイチ理解できない
映画の中身に触れるまえにまず、「家族」というものに対する私のスタンスについて書いておいた方がいいでしょう。
私は、「『血が繋がっているかどうか』にそこまで強い意味があるのだろうか」といつも考えてしまいます。もちろん、「『血の繋がり』に関する何らかの現実を突きつけられたことがないから実感できないだけだ」と言われれば返す言葉はありません。少なくとも今のところ、自分が養子であるとか、親から生まれるはずのない血液型である、みたいなことはなさそうです。また、私は結婚していないし子どももいないので、自分の子どもと血が繋がっていないと判明したなんてこともありません。
だから結局、すべては想像でしかないのですが、どんな風にイメージしても、「血が繋がっていること」が自分の判断基準の上位に来ることはないと感じてしまうのです。
というかそもそも、「家族」という存在が私には違和感でしかありません。というのも、「血が繋がっている」以外の共通項が存在しないのに、一緒にいることが当然だとされているからです。私は昔から、そのことが不思議で仕方ありませんでした。
もちろん「家族」の場合、「同じ時間を長く過ごした」という、普通の人間関係ではなかなか成立し得ない経験を持っています。なので、その「時間の共有」が関係性に大きく影響するのは当然でしょう。ただそれは、良い風に働くこともあれば悪い風にも働くこともあるはずです。私の場合は、長い時間一緒にいるからこそ、「やっぱりこの人たちとは感覚が合わないな」と子どもの頃からずっと感じていました。私には、「時間の共有」はマイナスにしか働かなかったと感じています。
また、結婚して子どもを育てる予定などまったくありませんが、「もし仮に子どもを育てるなら養子がいい」とずっと考えていました。そもそも、ペットなど含め「会話が成立しない対象」は苦手なので、赤ちゃんも好きではありません。だから仮に子育てするなら、中学生ぐらいの養子を迎えて育てられたらいいなぁ、みたいなことをいつも考えています。
さて、私が今ここで書いたような感覚が、世間からズレまくっていることは当然理解しています。「血の繋がりこそ、人間関係の最上位」と誰もが考えているなどとは思っていませんが、最上位かどうかはともかく「血の繋がった関係」が重要だと多くの人は感じているのだろうし、だからこそ私の感覚はまず共感されないでしょう。そのことはきちんと理解しています。
そんな人間がこの映画の感想を書いても、きっと理解されないでしょう。ただ、この記事を書いているのがどういう人間なのかを理解した上で読んでいただけるとありがたいなと思います。
「子育て」や「幸せ」をどう捉えるかの違い
映画でももちろん、「血の繋がり」は重視されますが、2家族の対立の中心に存在するものではありません。どちらも、「血の繋がり」について同じように苦悩するのです。
それよりも2家族の差異として強調されるのが、「子育て」や「幸せ」に対する考え方でしょう。
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