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自分で考える…

中村光夫『自分で考える』。
昭和32年8月初版。

会社でもプライベートでも、ChatGPTやPerplexityといった生成AIを不器用に使っている。すぐに解を提示してくれてありがたい装置だと心底思う。ChatGPTに壁打ち役になってもらったなんて言葉は今はよく聞くけど、まだ僕には違和感があるのも事実。理解はしているけど、まだ馴染めていないというか。

僕は長い間、新刊書や古書、古本を探し、読んで自分に取り込むことで、結果的に壁打ちや相談をさせてもらってきた感覚がある。共鳴する価値観やなるほどなるほど…とうなずく箇所をメモし、日常会話に出し、仕事の企画書では引用して使う。自分なりに考え、オリジナルに消化したつもりで。改めて振り返ると、こんなことの積み上げの表れが、成熟した大人の個性だと考えてきたかもしれない。

で、この本、中村光夫『自分で考える』。なんていい書名なのだろう。ヒトとして当たり前のことなのに。

この本は、いつもチェックしている作家、荻原魚雷のブログ『文壇高円寺』で知った。2月7日付けのブログはこう始まる。

レコードを擦り切れるほど聴く。本に穴が空く
ほど読む。デジタルの時代にもそういう言い回しがあるのか。散歩中、そんなことを考えていた。

荻原魚雷『文壇高円寺』


イントロが短く、いきなりサビから始まる曲が増え、文章指導では「最初に結論を書け」と教えられる…と来て、文章はこう続く。

わたしはなかなか本題に入らず、ぐだぐだ遠まわりして、しかもオチがないような小説や随筆が好きなのだが、そういう作品は今の主流ではない。

荻原魚雷『文壇高円寺』


その後荻原は、それこそ穴が空くほど読んだ評論家、中村光夫のこの本の「精神の速力」というエッセイを絶妙に差し込む。70年近く前のエッセイを。

う〜ん、面白いとうなった僕は、そそくさと『自分で考える』を求め、読了した。

たくさんの知人よりひとりの友人こそ人生において求めるべきであるように、読書においても多読はただ精読の対象を見出すまでの手段にすぎないでしょう。

中村光夫『自分で考える』


僕はこの箇所を手書きで手帳にメモした。生成AIは、例えばこんな箇所を引っ張り出してくれるのだろうか。70年前の本の中から。

何らかの情報で、本の存在を知り(今回は魚雷さんのブログで知り)、探して探して、手に入れて、読んでみる。その結果、自分の中に残しておきたい文章を見つけた、嬉々として。これぞ読書の歓び。古い本ならなおさらだ。
どんな装置ができても、僕はこの歓びは求め続けるだろうなあ。時代へのアンチテーゼを気取るつもりは毛頭ないけれど。

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