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藤壺の宮は〝物の怪のせい〟にしたくない 【第15話】

第三章 花の夕顔、鬼はや一口に喰ひてけり 

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「えぇ、左様。たとえその姫君が生きていたとしても、なのですよ。彼女を背負った下男は、雪上に足跡を残しながら、どうやって検非違使けびいしたちの目を掻い潜り、逃げおおせたというんです?」

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「そうだ、それがありましたね……」
「結局、それを解決しなければならないのよね」

 もしも仮に、鷲男わしおという下男が恋情をこじらせ、夕顔を盗み出したとして。
 それでも、夜警の検非違使たちに姿を見られることなく、この廃院を脱出する困難さは、依然として存在しているわけだった。

 さてどうしたものかと、脩子は考え込む。
 今までの仮説も、完全に棄却ききゃくというわけではないだろう。
 何しろ、少なくとも邸内で遺体を損壊した形跡が無いことに関しては、きちんと説明がつくのである。
 ただ、そうだとするならば。男は夕顔を背負い、どうやってこの廃院を出て行ったのかという謎が、再び浮上してくるというわけだった。
 顎に手を添え、視線を宙空に彷徨さまよわせていると、光る君がぽつりと呟く。

「それに……雪上の足跡は、一往復、、、なんですよね」
「そう、それもおかしいのよね」

 光る君の言葉に、脩子も頷いた。
 そうなのだ。犯人が出て行ったとするならば、戻る足跡は何だという話になる。
 そして、戻ってきた人物は、一体どこへ消えたのかという話にもなるわけだ。

少尉しょうい。その足跡って、この廃院の門から外へは、続いていたんですか?」

 光る君にそう問われたたちばなの少尉は「いやはや、それは何とも言いかねんのです」と曖昧に応じた。

「というのも、雪が降り始めてからは、夜警の者たちも、寒さでじっとしてはおれんかったようで。時折、門前の通りをうろうろと歩いていたというのですよ」
「つまり、足跡が門から外に続いていたかどうかは、不明だ、と?」
「まぁ、そういうことになりますな。門より外は、それなりに踏み荒らされていて、判然としなかったというわけです」

 光る君は「なるほど……」とだけ呟いて、再び思案にふけり始める。
 だが、脩子としては、どうにも情報が足ないような気がしてならなかった。

「……そういえば、その鷲男という男が酒を仕入れてきた臨時就労っていうのは、どういうものだったのかしらね」

 脩子に、橘の少尉は「あぁ」と思い出したように頷いた。

「ちょうど昨日、右大臣邸で藻塩焼もしおやきをやったんだそうですよ。わざわざ庭に、塩釜までこしらえて。それで、浜の出身の者を、臨時で都中につのっていたそうで……」
「藻塩焼き……?」

 藻塩焼きというのは、古くは万葉集にも登場する、伝統的な製塩方法である。
 塩焼きの風景は、田舎のわびしさの象徴である一方で、立ちのぼる煙を見て風情を楽しむというのも、平安貴族の風流な遊びの一つだった。
 貴族たちはこの藻塩焼きよく好み、たびたび和歌の題材にも詠み込んでいるほどだ。
 もっとも有名な和歌は、藤原定家ふじわらのていかの『来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩もしおの身も焦がれつつ』という和歌だろうか。
 海が遠い都であるからこそ、当時の貴族たちにはいその香りが物珍しく、あはれに思えたのかもしれない。だが、それにしても──。

「こんな時期に?」
「こんな時期だからじゃないですか?」
「……あぁ、それもそうかしらね」

 光る君の言葉に、なるほど一理あるかと頷いた。
 橘の少尉は、話を続ける。

「何でも、叡山えいざんの高僧が描いた、冬の浜の藻塩焼きの絵図が、それは見事だったそうで。それが今、上流のお貴族さま方に大人気なのだとか。てっきりあなた方の方が、お詳しいかと思ったんですがね?」
「……これでも僕、ひと月の間、物忌だったんですよ? さすがに知りません」
「そういう風流な流行ごとを教えてくれる友人は、あいにくと持ち合わせていないの」

 肩を竦める光る君に続き、脩子もおどけたようにそう返す。
 橘の少尉は、そんな二人の様子に苦笑してから、おもむろに口を開いた。

「その鷲男という下男は、どうやら明石あかしの浜の出身だったらしいのですよ。それで、昨日の右大臣邸での臨時就労に、参加したのだとか。そういえば、検非違使の中にもこれに参加した者がいたはずですが……話をお聞きになりますかな?」

 光る君が、ちらりとその目を脩子へ向ける。
 脩子はひとつ頷いてから「ぜひ」とだけ小さく答えた。

      ◇◆◇

 簀子すのこに腰掛けて待っていれば、呼ばれた男はすぐにやって来た。
 日に焼けた浅黒い肌に、濃い髭面の男は、四十代半ばといったところだろうか。
 がっしりとした体つきの、いかにも武人といった風体である。
 男もまた、光る君の覆面を見るなり「これは懐かしい」と豪快に笑って、光る君の背をばしばしと叩いた。
 およそ、自分の所属する組織の長に対する扱いではなかったが、光る君は慣れた様子で苦笑いしている。
 おおかた、彼も古参の検非違使で、身分を明かす前からの付き合いなのだろう。

「それで? 坊が名指しで個人を呼び出すたぁ、一体どういうご用件で?」

 小野の大志というらしい髭面の男は、橘の少尉よりずっと粗野そやな口ぶりで、そう単刀直入に切り込んできた。
 対して、光る君は落ち着き払った様子で口を開く。

「昨日の、右大臣邸での藻塩焼もしおやきの様子を聞きたいんですけど──」
 だが光る君の言葉は、何とも尻切れ蜻蛉とんぼに終わることになる。
「……右大臣、だぁ?」
 大志が、とつぜん光る君の肩をがしっと掴み、その体をがくがくと揺さぶったからだ。

「なぁ、どうして高位のお貴族さまってぇのは、あぁも下々の人間の命を軽んじるんですかい!」
「え? いや、ちょっと」
「そりゃあ、坊に言ったところで、せんないことなのかもしれやせんがねぇ! それでも俺は、殿上人って奴らのやりようにゃ、ほとほと呆れ返ってるんでさぁ!」
「いやだから、ちょっと落ち着いてくださ──」
「これが落ち着いていられるかってんだっ!  あいつらときたら、貴族以下の人間なんざ、虫ケラ同然に思っていやがる。どうにかならんもんですかい!?」
「あぁもう、落ち着いてくださいってば!」

 するりと大志の腕から抜け出した光る君は、男の眼前でパン! と大きく柏手を打つ。その音に我に返ったらしい大志は、ばつが悪そうに頭を搔きながら「いや、こいつは失敬……」とようやく頭を下げた。
 光る君が疲れたように、ひとまず座るように促せば。男は遠慮することもなく、簀子にどっかりと胡座あぐらをかく。
 それから「……昨日の藻塩焼きの様を、喋ればいいんですかい」と忌々しげに呟いて、やがてぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。


「俺はその、鷲男わしおってぇ男のことは知りやせん。何しろ昨日は、臨時就労につどった、浜育ちの人間の寄せ集めだ。互いの出身地も、海辺ってこと以外はてんでばらばら。その鷲男とやらの顔さえおぼろげなんで、俺に喋れるのは、せいぜいが昨日の塩焼きの様子くらいです」

 大志の言葉に、脩子と光る君は頷いて先を促す。
 大志はため息をひとつ吐いてから、再び口を開いた。

 その臨時就労に集まったのは、二十人前後であったのだと、大志はいう。
 彼らが右大臣邸にやって来た時、庭にはすでに塩釜が設置されており、海水と藻塩草もしおぐさが入った大樽おおだるが三、四つほど用意されていたらしい。

 本来の塩焼きとは、まず刈り取った海藻を浜に並べ、その海藻に海水をかけて、天日で干すところから始まるという。
 そうして、海藻表面に海水塩を凝縮させてから、その塩が付着した海藻を樽の中で、さらに海水を用いて洗い、塩分濃度を上げた鹹水かんすいというものを作る。
 その鹹水だけを、土器で煮詰めて塩を作る製塩法が、藻塩焼きなのだという。

「とまぁ、本来の鹹水かんすいの作り方は、そうなんですがねぇ。とはいえ、都でやる藻塩焼きってぇのは、ただの演出なもんで」

 実際のところは、天日干しなどの丁寧な作業を経ずに、樽に生の海藻と、ひたすらに塩そのものを大量にぶち込んで、単純に塩分濃度を上げたものを都に持ち込んでいるのだと、大志は皮肉げに言う。
 製塩という意味では本末転倒だが、まぁ、あくまでも演出パフォーマンスとしてなので、分かりやすく劇的な方がいいとのことなのだろう。
 見えないところでの手間は惜しんだ上で、ひと樽ひと樽の塩分濃度を物理的に上げてしまえというのは、地方の裏知恵的で興味深いなと、脩子は小さく笑った。

 ところが、その惜しんだ手間があだになったのだと、小野の大志は苦々しげにいう。
 それは、送られてきた鹹水かんすいもどきの樽から、一人の男が藻塩草もしおぐさを取り除こうとした時のことだった。
 その男は「ぎゃっ」とって、大樽をひっくり返しながら、その場でのたうち回ったのだそうだ。

「その樽にゃあ、エボシの死骸がね、藻塩草の中に紛れとったんですよ」
「烏帽子?」
 聞き馴染みのある言葉だからこそ、思わず聞き返した光る君に、大志は深く頷く。

「カツオノエボシという、猛毒の、海月くらげのようなもんです」

 あぁ、それなら聞いたことあるぞ、と脩子は内心で呟いた。
 令和の世でも、海水浴場に打ち上げられては、ニュースで注意喚起されるアレである。
 青く透き通ったグラデーションの、美しい見た目とは裏腹に、その毒性はひどく恐ろしい。
 刺されると「電気クラゲ」の俗称の通り、しびれるような激痛が走り、くしゃみや咳のほか、心拍数の上昇、時に呼吸困難などを引き起こし、大人でも死に至ることがあるという。その毒性は、カツオノエボシ本体の生死にも関係がないらしい。
 要するに、浜に打ち上げられた死骸であっても、その毒性は健在であるというわけだった。

「本来の鹹水かんすいの作り方で、ちゃんと藻塩草を天日に干しとったら、こうはならんかったんですがねぇ。何せ浜の人間は、エボシを湯がいて干して、粉末状にしたもんを、眠り薬として使いよるくらいなもんで。ただ、今回は、干してすらいない、生の死骸だったのが、問題だったというわけです」

 平安時代、貴族が体調を崩した時の第一選択肢は、加持祈祷かじきとうであって薬ではない。薬という面では、地方の民間療法のようなものの方が進んでいたかもしれないというのは、何とも皮肉だなと脩子は思う。
 とはいえ、そんな民間療法的な薬を飲みたいかと言われれば、それはまた別の話だ。
 彼らにとっては、まだ毒性が残っていようと、甚大な副作用があろうと、眠くなればそれは〝眠り薬〟であるのだから。

 さて、激痛にもんどり打つ男に対し、海辺出身の男たちは初対面ながらにも心配し、駆け寄ったという。
 カツオノエボシの恐ろしさを知らぬ者など、浜育ちの人間にはいないからだ。

「遠巻きに見ていたお貴族さまの中にも、こちらに何事だと問う人間がおったんですよ。で、自分が「毒を持った生き物に刺された」と答えたわけです」

 するとその貴族は、さらに「死ぬのか」と問うたらしい。

「俺はね、貴族の中にも心配してくれる者があるのかと、ちぃとばかり感動したもんです。それで「死ぬこともある」と答えた。……そうすると、その貴族は何と言いやがったと思います?」

 大志は忌々いまいましそうに舌打ちをして、吐き捨てるようにこう言った。

「「死ぬ前につまみ出せ、今すぐ遠くへ打ちててこい!」だとよ。信じられますかい!?」

 大志はつばでも飛ばす勢いで、光る君にそうまくし立てる。
 どうやらこの貴族こそが、右大臣その人であったのだという。
 脩子はといえば、あぁ、貴族特有のけが忌避きひかと思いつつも、一人首を傾げていた。何やら右大臣の反応は、少しばかり過剰な気がしないでもないからだ。
 光る君は、そんな脩子の様子に気づいたのか、苦笑して「その原因には、ちょっと心当たりがあるかな」と呟いた。

「父上の名代みょうだいとして、東宮とうぐうである兄上がり行う予定の祭祀さいしが、実はすでに二度、死穢しえによって延期になっているんです」

 東宮といえば、弘徽殿こきでん女御にょうごが産んだ第一皇子だ。弘徽殿の女御の実家というのは、右大臣家である。
 光る君は、指折り数えながら「一度目は、兄上の飼っていた猫が、老衰で死んでしまったことで……」と言葉を続ける。

「二度目は、先月の六の君殺しです。あの日の宴は、参加者も多かったですからね。主だった祭祀の列席者が、軒並み物忌に入ってしまい、先月もまた延期になりました」
 光る君は眉尻を下げ、困ったように小さく肩を竦める。

「たぶん右大臣どのは「三度目こそは」と考えているんだろうな、と。何故ならそろそろ父上が、名代を僕に変更しようとしかねないから……」

 名代というのは、帝の代理に立つということだ。
 今のところは、次期帝として東宮を名代に立ててはいるが、それが三度も延期となれば、名代をお気に入りの息子に変える大義名分が出来てしまう。
 露骨に光る君を溺愛する桐壺帝であれば、そういうことをやりかねないというのは、脩子のような者でも分かった。そりゃあ、右大臣も危機感を持つはずである。

 小野の大志はぽかんと口を開けて「お貴族さま方の考えるこたぁ、やっぱりこれっぽっちも理解できねえや」と呟いた。
 彼からすれば、穢れというのも、政治闘争というのも、二重に理解の埒外らちがいのことであるのだろう。
 光る君は、大志の反応に苦笑いして「それで、その後はどうなったんですか?」と話の続きを促した。大志は一つ咳払いをすると、話を再開する。

 結局、浜育ちの男たちで話し合い、一人を男の介抱に割き、右大臣邸から離れさせることにしたのだという。
 そうして、残った人間たちで、他の大樽を使って藻塩焼きを行ったらしい。

「だいたい、なんだってこんな寒い季節にやるんだかってぇ話ですよ。こちとら、手も足も鹹水かんすいでずぶ濡れになるわけです。寒いったらねぇ。下々のことなんざ、気遣うわけもねぇんでしょうがねぇ、天上のお貴族さま方は」

 吐き捨てるような口調の大志に、光る君は反論するでもなく、ただただ苦笑するばかりだった。
 やがて、藻塩焼きが終わった後のこと。
 臨時就労の報酬に対して、酒も上乗せして振る舞われたのだと、大志はいう。
 それも「右大臣邸内で死者が出かけたことは、決して口外するな」とのことだったらしい。
 大志は「いやぁ、坊が尋ねてくれて良かった良かった、誰かに愚痴を言いたくて、うずうずしとったもんですから」と豪快に笑う。

「以上が、俺の知っとる昨日の藻塩焼きの様子です。あぁ、いや、そういえば──」

 そこで言葉を切った男は「坊たちはもう、叡山えいざんの高僧が描いた浜の絵ってぇ奴を、見たんですかい?」とこちらを見遣る。
 二人して首を横に振れば、大志は「そいつはいい。ありゃあ、見る価値もないってもんですよ」とけらけら笑う。

「俺は、出来上がった藻塩を献上するときに、あの絵がちらっとばかし、目に入ったんですがね。確かに海の蒼の濃淡はよく描けちゃあいましたが、雪が浜にこんもり積もって描かれとったんです。ありゃあ多分、浜の育ちでない者が、想像で描いた風景なんでしょうなぁ」

 大志の言葉に、脩子と光る君は無言で視線を交わし合う。
 光る君が小さく頷くので、脩子は彼に質問を譲ることにした。

「大志。藻塩焼きが終わったあと、あなたの手足や藁履わらぐつは、どんな状態になりましたか?」

 光る君の問いに対し、大志は「そうですなぁ……」と髭の濃い顎に手をやる。

「どんなと言われても、そりゃあ、乾けばびっしりと塩を吹きましたよ。それこそ、湯治場とうじばの湯の花みたいにね。本物の鹹水かんすいより塩の濃い水を、たっぷり含んでいるんだ。当然でしょう?」


 去っていった小野の大志の背を見送りつつ、脩子は光る君と顔を見合わせる。
「そりゃあ、検非違使たちの目に留まらないはずよね……」
「えぇ。だけど、それでも雪の上には足跡が残ってしまった、と……」

 これで、全てピースが揃ったどころか、もはや完全にアンサーだった。
 砂浜に雪が積もりにくいのは、海岸の砂に塩分が含まれているからだ。
 塩化ナトリウムは、雪を溶かす、、、、、のである。
 右大臣がこんな時期に藻塩焼きを思い立ったのも、風流ついでに、雪の対策にもなるという魂胆があったからなのだろう。

「事件に関しても、ちょっと野蛮な『芥川あくたがわ』っていう仮説は、そのまま流用ってことでいいですよね?」

 光る君が、そう確認するように問う。
 脩子が頷くのを見届けてから、光る君は言葉を続けた。

「下男は藻塩焼きの後に、腕を調達して、かめのひとつに隠して持ち込んだ。そして、酒の方には眠り薬を仕込んで、夕顔の君に献上した……」

 脩子もまた、これを受けて、続きを引き取る。

「宴会のあと、夕顔が床についたのは、の刻より少し前のこと。そして、使用人たちの意識も、その直後に途絶えているんだもの……。鷲男わしおは皆が寝静まったあと、調達した腕をうちぎ表着うわぎくるんで置き、それから夕顔を背負って廃院を出た。だけどそれは、亥の刻、、、から、、子の刻、、、まで、、のこと、、、だった」

 亥の刻というのは、現代でいうところの二十一時から二十三時までだ。
 そして、検非違使たちが夜警に立ち始めたの刻というのは、二十三時以降のことをいう。この間、優に二時間の猶予ゆうよがあるのである。
 これらの簡易な工作をして出ていくのにも、十分すぎる余裕があったと思われた。

 一方で、確かにその時間には、雪は積もるどころか、降り始めてすらいない。
 だが、藻塩焼きを行った鷲男の藁履わらぐつは、海水にさらに塩をぶち込んだ、非常に高い塩分濃度の水を多分に含んでいたわけだ。
 その上、乾燥した後には、びっしりと塩を吹くほどだったというのである。
 鷲男はそんな藁履わらぐつのまま廃院に入り、宴会を経て、夕顔を背負って出ていったわけだ。
 その足跡には、当然ながら、多量の塩が付着していたに違いない。結晶化した塩は、踏みしめるたびに擦れ合って、塩を落としていったと考えられるからだ。
 そうして、彼が廃院を出ていった後のこと。
 丑の刻ごろに薄っすらと積もった雪は、残された足跡の形に溶けてしまったという図式ではなかろうか。
 そう考えれば、一往復分の足跡も、検非違使たちが足跡の主の姿を視認できなかった理由も、説明がつくというわけだった。

「これ、夕顔の君も同意の上だと思いますか?」
「どうだろう。でも、娘まで置いていくことになっているあたり、下男の一方的な暴走のような気もするけれど……」
「同意の上でないのなら、鷲男を追捕ついぶさせるべきなのかな……」

 光る君と、そんな意見を交わしていた折のことだった。
 席を外していた橘の少尉が、何やら神妙な面持ちで戻ってきたのである。

「いやはや、どう報告したものですかな……。いえね、先ほどこの辺りをうろつく、不審な者を捕らえたというんですがね。それがどうやら、くだんの鷲男であったようなのですよ」

 橘の少尉曰く、鷲男は大貴族の屋敷が居並ぶ通りを、何かを探すように徘徊はいかいしていたとのことだった。

 では、何を探していたのだと問われれば。
 男はこう答えたのだという。
 女の亡骸なきがらを探していたのだ、と。



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https://note.com/lush_auklet5374/m/m53e660023f92


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