意思表示を怖れないこと
私は時々、文化や社会、国際情勢などに関して、
自分の意見を記事に書く。
日本では一般的に
そういった話題での意見表明をすることは
タブー視されていて、
そのタブーを破って自分の意見を話す人がいると
まるで悪人かのように
「非常識で頭のおかしい人」と看做して、
距離を取ろうとする傾向もある。
いろんな意見があるのだから
自分の考えを言うと、
別の考えの人が傷つくかもしれない、
嫌な気持ちにさせてしまうかもしれない。
だから遠慮すべきだ
という理屈。
多様性を認めるべきだ というなら
「(主にマスコミによって)世間一般に流通している見方以外は認めない」
という
日本社会にありがちな同調圧力よりも
様々な視点からの意見をぶつけ合い
議論を重ね、
考えや見識を洗練させて
人々が高い知性を獲得していくことのほうが
私には重要なことに思えるのに。
たぶん
〈感じが良くていい人〉だと思われたいのは
誰でも同じ。
誰かと何かで 言い争ったり
自分から人に嫌われにいく人なんて、
まずいない。
それでも
判断力のない子供時代ならいざ知らず
とっくに成人している大人の立場で
いつでも
何でも
何に対しても、
「全く」自分の意見を持たなかったり
言わなかったり
意思表示をなにもせず
「私は双方どっちにも味方します」
あるいは
「どっちの味方でもありません」
な態度をとり続ける人たちって
実際のところ
きちんと考えて自分の意見を持ったうえで
敢えて話さない というより
自分の頭でものを考える習慣がなく
いつも どこかで耳にした話か、
自分の思考を通ってもいない
誰か別の人の意見を
そのまま信じてるような人たちが
多いんじゃないかと思う。
(違っていれば良いんだけど…)
単に判断力がないから、
自分の意見というものを持てない。
だから話さない(話せない)
というだけのことなのでは? って。
もちろん
世の中の全ての物事に対して
いつも明確に自分の見解があるわけもなく
たいていは
両方の言い分も聞いてみないとわからない
とか、
いま見えている事だけがその問題の全てなのか
まだ判らないから判断できない
とか、
さまざまなケースがあるけれど
それでも 一人の大人として
態度を明確にすべきことだって、
普段から日常に たくさんあると思う。
たとえば
差別はイケナイとか、
判で押したように みな言うけれど
私は しちゃいけないのは
〈謂れのない差別〉だけだと思う。
(表面的な言葉の意味だけで脊髄反射をする人は
きっともう拒否反応が出て、
こいつ悪者だ!と決めつけて
以下に何が書かれていようと
とにかく否定、批判&非難に入るのでしょうけど
私はそうされても気にならないので、続けますね♪
↑ダメージはもちろん感じるけどそれを怖がらないだけ)
〈謂れ(理由)のある差別〉は
なぜそれが必要なのか? を
きちんと説明できるのならば、
むしろ
見分け方の能力を高めるためにも
大人から先ず 日常生活のなかで
冷静に 公正に考えた上で
やってみせるべきものなのかもしれない。
「判断して区別する」(=ある意味「差別する」)ってことを
自分自身で学ばせたり
教えたりしないと、
これから大人になっていく子供たちは
善悪すら しっかり学べない。
いじめっ子は
いじめなんかしない子と明確に区別して、
特別に指導したり
罰を与えたりするべきだし、
それを
「いじめっ子が差別されるから可哀想」
なんて言うのは、違うと思う。
その子にいじめられて
苦しんでいる子がいるのに。
悲しくて、絶望して、
自殺までしてしまう子がいるのに。
「おまえはいじめたんだから、
その代償を受けなさい」
という筋を通し、
大人全員が はっきりと意思表示をしないと
子供たちは いじめが悪いことだと学べない。
「なんで」それをしたかっていう理由を問うのは
次の段階だ。
情状酌量はそこですれば良い、
そのいじめっ子の話もちゃんと聞いてあげて。
必要なら 心のケアもしてあげて。
でも
〈いじめた事実〉に対しては
いっさい容赦せず、
それが「問答無用で悪いこと」だと認めさせ、
先ずはそれを厳しく叱らないといけないと思う。
どんな事情があろうが、
自分の身勝手な都合で
他人に対し
やってはいけないことがあるんだ って。
それで他の子に
「君はいじめっ子だから一緒に遊びたくない」
と言われるようになっても、
それは〈理由のある差別〉であって、
〈不当な差別〉なんかじゃない。
単に自分自身がしたことの〈代償〉。
いじめたことを反省して、
いじめた子に謝ったり、仲直りして、
二度ともういじめをしなくなっても
しばらくの間
「あいつはいじめっ子だ」と言われ続けることは
仕方がないだろう。
たとえば1年 いじめ続けていたなら、
やっぱり名誉回復には1年くらい
かかるんじゃないかな。
その代償をちゃんと受けた後に
たとえば何年たっても、
いつまで経っても、
それを糾弾され続ける事態が起こったとしたら
それはまた別に
考慮してあげなければならない事だとは思うけど。
(それは実際に行った行為の酷さや、
いじめ被害者の人の、心の傷の深さにもよると思う。
取り返しのつかなさ というか。
いじめた事実とその責任は消えないしね)
大人たちが気を付けなければいけないことは
その〈理由のある差別〉をきちんとコントロールして、
子供たちだけに 状況を任せないこと。
子供だって 大人といっしょで
特に集団になると、
権力を笠に着て、暴走することがある。
元いじめっ子が”きちんと反省しているのであれば“
大人たちはその子も 一人の子供として
守ってあげる必要がある。
近い将来 今度はその子が
〈被害者〉の立場になってしまわないように。
「◯◯君/◯◯ちゃんは、ちゃんと反省してるんだから、
もう赦してあげなさい。
実際にもう、いじめなんかしていないでしょう?
だから仲良くして 一緒に遊んであげなさい」って。
大人の責任って、特に子供に対しては
小さくもないし、簡単でもなく、
実際のところ
非常に骨の折れるものなんだと思うけど
学校でも 家庭でも
たぶん社会でも
大人たちは じぶんの忙しさにかまけたり、
じぶんの保身や 怠惰を優先させて、
次世代を担っていく人たちを
教え諭すことについてや
今の社会を〈より良い方向へ導いていくこと〉については、
すごく手を抜いてるんじゃないかと思う。
最近の風潮では 親が子供に
「いじめっ子を止めるといじめられるから、黙ってなさい」
と教えているって、ほんとなのかな。
「見て見ぬふりをしろ」
って、言い聞かせてるってことでしょ?
「たとえ自分の目の前で
ひどいことが起こっていても
止めろと言わなくて良い」
って教えてるってことでしょ?
恐ろしいよ。
私は 小学校の先生だったおばあちゃんから
「いじめられてる子がいたら、
かばってあげなさい」
と教わっていたから
うちの小学校では せいぜい
少人数の意地悪グループが
誰かの悪口を
本人に聞こえるように言うって程度の
いじめしかなかったけど
(たぶんまだ平和な世代で
その後 私が通った中学高校では
たまたま いじめもなかった)
それでも
そうやって悪口を言われてる子が
泣いていたり、
下を向いたまま縮こまったりしているところに
もし居合わせたら
その子の隣に立って、
そこから意地悪グループの子たちに向かって
「◯◯ちゃんは、XX(←「バイキン」とかの悪口)じゃないよ」
「いじめる子って、かっこわるい」
くらいは言うようにしてた。
おばあちゃんからの言いつけを 私なりに守るために。
当然、そんなことをしたら目をつけられる。
もちろん私も、言葉で攻撃されたりした。
でもそういう自分への悪口にも
「ちがうもん」とか
ちゃんと意思表示して、言い返してた。
1 対 大集団 ではない時代だったから、
出来たんだとは思う。
あの頃 私の小学校(公立)では先生達もまだ
ちゃんと介入してくれる人たちだったし、
クラスメイトの中にも
「そうだよ、るりちゃんの言う通りだよ」等と言って、
味方になってくれる子たちもいた。
いじめに関してはもう一つ、気になっている事がある。
多くの親たちは
「うちの子が いじめられたらどうしよう」
という心配はするけど
「うちの子が いじめたらどうしよう」
とは考えないから、
「誰かにこういうことをしちゃダメだよ」
という教育が
先ず成されていない、という話。
この記事の主旨とは違うけど、
ついでなので一言。
〈意思表示〉っていうのは
とても大切なことなんだと思う。
なにか解決するべき事態が起きたとき
意思表示を
もしその場にいる人たち全員が
全くせずに 黙ったままだと、
その場での 力の強い人間の
独壇場になるだけなのに
なにもオリジナリティあふれる意見を言う必要はなく、
はっきりとした自分の意見がないなら
せめて
良識的な声をあげる人がいた時に
すかさず「そうだ」と賛同する意思表示をして、
それが〈大多数〉になれば
ただその場での 押しが強いだけの人が
幅を利かすことにはならないのに。
「そうだ」と
はっきりとした言葉で賛同すらせずに、
その判断への関わりを避けようと
曖昧に黙ったままの人が
あまりにも多いから
押しの強い人とは別の意見を
せっかく勇気を出して
声をあげて言ってくれた人がいても、
孤立したり
少数派になってしまい、
その声がかき消されてしまう。
自分の身を守りたいのは解るけど
それを多くの人たちがずっと続けてきた結果、
今の日本は
子供の社会も
大人の社会でも
良識的な人間がマジョリティになれず
実際のところ
どこかおかしいことが
世の中ではまかり通っていて、
犯罪の加害者や 非常識な人たちの方が
より強く
被害者や 良識のある人たちが
より弱いままの
この現実のなかで
社会の問題について
人間関係の問題について
保身のために それでも今まで通り
このままずっと沈黙を続けるべきなのか
いま
もういちどよく 考えて欲しいと思う。
人によって置かれている状況は違うし、
個々人で出来る範囲もあるだろうけど
私は
〈意思表示をせずにずっと黙っていること〉が
大人の対応で、
それがいつでも〈良識的な良いこと〉だなんて
違うと思う。
少なくとも
じぶんは知恵も常識も持っている
と自覚しているなら
逆に
「何も意思表示をしないのは恥だ」くらいに
思ったほうがいい。
自分の判断力に自信がなくて出来ない
というのでも
「いまの自分としてどう思うか」で
じゅうぶんだし、
(人間は日々勉強、日々成長だから)
まだまだ未熟だと思うなら
自ら努力して、それを磨くべきだし。
『義を見てせざるは勇無きなり』
せめてこの古い言葉をもう一度
日本人の心のなかで生き返らせないと、
失われていくべきでないものを
守り切れなくなってくる。
なにか大切なものを
永久に失ってしまいそうな、
そういう危機感を感じてる。
潜在的マジョリティの人たちは〈まともな〉人たちなのに
その人たちが 黙ったままで
声を挙げて意思表示をしないから、
ただ大きい音を鳴らすだけのマイノリティに
〈 日本の世相 〉を乗っ取られてる。
自分には何も責任がない なんて
思っちゃいけない。
黙っていないで 意思表示をしていこう。
これは心理戦でもある。
非常識な人たちに 非常識なことを続けさせず
「あれ、自分は間違ってる?」
「自分は 非常識だと思われてる?」
「自分に味方してくれる人が… いない?」 と
自ら考えさせ、その声をトーンダウンさせるための。
彼等にとって居心地の良い、
〈好き勝手にやりやすい環境〉を
与えないための。
たった一人で頭のおかしい人に立ち向かえって言ってるわけじゃない。
状況判断をし、自分の身の安全確保をすることは
いつだって最優先事項だし、
そういう意味の「保身」は、言葉は同じでも、
動機と状況に違う意味と重要さがある。
ただ 〈本当のマジョリティ〉としての立場を
きちんと取り戻そう。
そのためには 一人ひとりが
八方美人を決め込まないで
保身ばかりに走らないで
沈黙を破って
意思表示をする必要があるんだ と
私は思うから、
それを書いてる。
「そうだよ… その人の言う通りだと思うよ」
あなたの心がそう感じたときに、
心の中だけでなく、
勇気をだして
声に出して 言うようにすればいいだけ。
はっきりと 味方してあげればいいだけ。
私のおばあちゃんが教えてくれたように
子供たちには
黙って見ないふりをしなさい ではなく
「いじめられてる子がいたら、
かばってあげなさい」
と教えればいいだけ。
教師や校長ですら 保身のために口をつぐんでいる現実のなかで
子供たちの心や 身体を守るためには
子供達同士で直接 お互いを守り、
かばい合うようにさせるしかないんじゃない?
会社や社会の さまざま場所で
良識的、道徳的な意見や
規律の軸が
変な方向に行ってしまわないよう
皆がそれぞれ
自分の意思表示をすることで
良識の存在を支え、悪徳が蔓延るのを警戒するようにしていったら
今の社会の現状は 変化していくはずだと思う。
沈黙した水面に
かすかな揺らぎさえ起こらなかったら
その水は静かにただ
よどみ続けていくだけだけど
ひとつひとつは たとえ小さな声(発信)でも
その小さな音が重なり合って
大きく響き渡っていったり
誰かの勇気ある 小さなひとことが
〈本来のマジョリティ〉の 最初の同心円を
きっと生んでいくよ。
和をもって貴しとなす文化を、
社会を、
これ以上 いびつに歪ませたり 小さくさせて
やがては
消えさせてしまわないように。
一人ひとりの手のひらが集まって
しっかりと逆風を防ぐ 厚い壁になり
今にも消えそうになっている 小さな火を
決して失ったりしないように。
自分でどう感じていようと
あなたの声は
取るに足らない
価値のないものなんかじゃない。
大人であるあなたの喉から発せられる
小さな声のひとつひとつが
この国の
そして世界の、
世論や社会常識を かたちづくっていく。
どうか明確に
〈意思表示〉を。