せいじお兄ちゃんのこと
*最初に*
今回の記事では、初の試みをしています。
一つは、
YouTube動画など Web上にあるものではなく、
自分のデバイスで作成したファイル(音楽)を
記事内に埋め込んでいること。
二つめは、
有料部分を設けたことです。
なぜか?という理由や 内容は
記事をお読みいただければわかりますが、
「え、いつもと雰囲気が違う…😨」
と戸惑うかたもいるかな?と思ったので
(それか、私が何か間違いをしてたり💦)
事前にお知らせしておきますね😉
*****
この カセットテープ(トップ画像) に書いてある
〈駒野生児〉という名前は
もちろん本名じゃなくて、
せいじお兄ちゃんが自分で考えてつけていた
アーティストネーム。
このカセットには
せいじお兄ちゃんが 作った歌を
自分で歌っているものや、
(たぶん)同じ音楽大学の お兄ちゃんの仲間たちが
演奏会などで
一緒に歌ったものが収録されている。
一曲
本人の作詞作曲で
本人が弾き語りしている歌を、
聴いてみてください。
見ての通り 古いテープだし
音を修正できる専門的な機材など当然無くて、
CD&Wカセットデッキ(現役✨)の前に
手持ちのデバイスを置いて、
ボイスメモでデジタルファイルを作っただけだから
音質は良くないけど、
(レトロ好きだけど最新テクノロジーも好きなのよ?
知識と機材は足りていませんが😭
この場合、他に良い方法あったら教えてください…)
音質の悪さをものともしない、
その向こうにある
音楽そのもの、楽奏そのものの魅力は
少しも遜色なく響いて、
伝わってくるんじゃないかな と思う。
せいじお兄ちゃんがどんな人かが
よく感じ取れる、
思わずクスッと笑ったり
自然と笑顔になってしまう、すてきな曲です。
♪ 野花荘讃歌
六畳一間の俺の下宿
その名も麗しい 野花荘
インスタントのラーメン
ボンカレー
時には彼女の麻婆豆腐
夏にはゴキブリの運動会
冬は寝てると隙間風 頬を撫でるよ
どこよりも安普請 俺の下宿
その名も麗しい 野花荘
若さむき出しガッツの俺だけど
時にはセンチになることもある
そんな時には 野花荘
ひとり酒
青春の空っ風 胸をよぎるよ
上水でいちばん安い宿
その名も麗しい 野花荘
足の折れた炬燵で冬を過ごし
西日いっぱい背に受けて
夏はサウナ風呂
青春の砦さ
オンボロ下宿
おれの心のふるさと 野花荘
野花荘 wow!
このまえupした
小澤征爾さんへの追悼記事の中で↓
従兄弟のせいじお兄ちゃんと名前が同じだったことが、
私が 小澤さんの活躍に興味を持つきっかけだった
と書いた。
もしかしたら気がついた人もいたかもしれないけど
私が 小澤征爾さん という存在を知った
その時にはもう、
せいじお兄ちゃんはいなかった。
若くして
亡くなってしまっていた。
もう ずっとずっと……なん十年も昔の出来事で、
せいじお兄ちゃんのご両親も
お二人とも
私がまだイタリアに住んでいた時期に
ご高齢で亡くなられて、
ほかの いとこの親戚たちとも
祖母が亡くなって以降 疎遠になっていたせいもあり、
お互い いま
どこでどうしているのか判らないほどで
実を言うと
ずいぶんと長い間 忘れてしまっていたのだけど
小澤さんの訃報のニュース以来、
せいじお兄ちゃんのことが
とても懐かしく思い出されて
どうしようかな… と かなり悩んだんだけど、
やっぱり
昔 こんな素敵な若者がいて、
こんな素敵な音楽を作っていたんだよ ってことを
みなさんに ご紹介したい気持ちが勝ちました。
だから今回は
私の従兄弟のお兄ちゃんで、
『音楽を愛していた「せいじ」という名前の人』の話を
少しだけ 聞いてくれますか?
うちの親戚は
おじ、おばと、それぞれの配偶者を合わせると
10人以上居て、
いとこまで含めると、けっこうな大所帯になる。
毎年お正月、お彼岸、お盆には
さして広いわけでもない家に
ほぼ全員が 必ず集まって、
親戚皆で にぎやかに過ごすのが通例だった。
せいじお兄ちゃんは
その大所帯の親戚たちの中で
“初孫” として生まれた。
祖父母の長女の第一子。
その祖父母、おじ、おば等
『大人たち全員』にとっては
初めて誕生した、可愛くて特別な
孫であり あるいは甥っ子。
私の母なんかは
まるで 自分の弟のように
「せいじ、せいじ」と呼び捨てで呼んで
可愛がっていた。
一方、孫組である私たち
『いとこ全員』にとっては、
大きくて(じっさい背も高かった)
優しくて 頼りになるお兄ちゃんだった。
親戚が集まっている時
「チビたち」と呼ばれていた私たちが
退屈などして騒ぎ出す(笑)前に
よく近所の公園に連れ行ってくれて、
一緒に遊んでくれたり
面倒を見てくれたりしていたので
私は 小さい子たちのお世話の仕方を
このお兄ちゃんや
他のいとこの お兄ちゃん、お姉ちゃんたちを見て
自然に学んでいってた気がする。
といっても
実際に顔を合わすのは 年にせいぜい三回くらいで
いつも親戚みんな 大勢でいたから
私とせいじお兄ちゃんの間に
特別な交流というものが
あったわけでもないのだけど、
それでもいくつか、
印象深い思い出がある。
私は1~2歳くらいの時
何日間か、せいじお兄ちゃんの家に
一人で預けられていたことがある。
たぶんまだ うちの家族が
おばあちゃんの家で一緒に住み始める前で、
母がお産で入院してた時じゃないかな。
その時に
せいじお兄ちゃんの 弟お兄ちゃんは
まだヤンチャ坊主で、
動きがいつも元気で、激しくて、素早いので
私はなんだか
近くにいるのが恐いな と感じていたんだけど
(↑ただ元気なだけで、いたずらとか悪い事はしない)
せいじお兄ちゃんは
穏やかで落ち着いた態度で、
優しく ゆっくりとお話ししてくれるから
全然こわくなかったし、
私は小さいながらも
この人は近くに来ても、
こちらから傍に近づいても、危険がない存在だ
と認識していたらしく
せいじお兄ちゃんのそばでは、いつも安心出来た。
二つ目の思い出は、
うちの伯母の一人が ハワイに
若くして嫁いで行っていたので
おばあちゃんは毎年、
皆でお正月に集まると
その模様をカセットテープに収めて
送ってあげていた。
毎回
だいたいほぼ全員が揃って、
おばあちゃん手作りの〈最高に美味しいおいなりさん〉や
おばさん達の それぞれの得意料理、
おじさん達が持ってくるお酒や、手土産の珍しい食べ物などで
宴もたけなわ となった頃
おじさんの一人が
「忘れないうちに始めるぞ」などと言いながら
徐にテープレコーダーを出してきて
大人たちだけじゃなく
私たち孫グループも みんな一人一人、順番に
レコーダーの前に呼び出される。
ハワイの親戚のみなさんへ
「あけましておめでとう」のご挨拶と、
他にも何かそれぞれ メッセージを入れて、
(私は今度何年生になります、とか、部活の話とか)
それに続けて なぜか全員
歌を一曲歌わされ、
それを吹き込むまでが恒例行事だったので
お酒が入っている大人たちが
みんな ノリノリで歌ったり、
それを聴いて お互い
ウケて盛り上がっているのとは違い
私たち孫グループの多くは
ご挨拶はともかく歌なんて、とても恥ずかしくて
出来れば歌いたくないので、
いつも別の部屋などに行って、逃げ回っていた。
そういう時、せいじお兄ちゃんは
みんなおいで と言いながら私たちを誘って
ピアノを弾いてくれて、
一人で歌うのが恥ずかしい子たちは
まとめて一緒に 合唱したりした。
(私もこっち↑に参加させてもらってた😅)
最後の
いちばん強くて、大切な思い出は
私が小学生のとき
せいじお兄ちゃんが一晩 うち(=おばあちゃんの家)に
泊まりに来たときのこと。
この頃 理由があって
私は一時期、
郊外の大きなマンションに引っ越した家族と離れ
元々暮らしていた この家で
おばあちゃんと二人暮らしをしていた。
当時もう社会人になっていたお兄ちゃんは、
翌朝早く どこかに出発する必要があるとかで
都心のおばあちゃんの家から行くのが便利だからと、
泊まりに来た。
その日 少しだけど
たぶん初めて、
せいじお兄ちゃんと二人で話す時間があった。
るりちゃんは何が好きなの?
みたいなことを聞かれて、
その当時は
習えないけどバレエが好きで、すごく憧れてる。
だってとてもきれいだから…
という話から始めて、
チャイコフスキーの音楽も好き。
『くるみ割り人形』を音楽の時間に聴いて、大好きになったの。
バレエもいつか、観たいなと思ってるんだ。
と言うと
チャイコフスキー、良いよね。
俺も好きだよ。
俺、ソ連って聞くとちょっと恐い国に感じるけど
ロシアっていうと、芸術が素晴らしい国って感じて、
好きなんだよなぁ。
(↑注:当時はまだ東西冷戦下でした)
それは
誰にも話したことはなかったけど
私も心の中で 全く同じように思っていた言葉で、
それが 今まで親しく話したこともなかった
せいじお兄ちゃんの口から出てきたので、
びっくりして
でも なんだか嬉しくて、
「わたしも!
ソ連は恐いけど、ロシアって聞くと
〈芸術の国〉って感じがするから、好き」と
すこし興奮気味に答えた。
そのあと
その日の宿題で
クラスの文集に載せる作文を書いていたら
「読ませてくれる?」と聞かれたんだけど、
「恥ずかしいし、まだ全部書けてないから、だめ」
「じゃあ、その文集が出来上がったら読ませて」
「うん、わかった。出来たら見せるね」
そう約束した。
それから一、二週間経ったあと
母から
あんた、せいじお兄ちゃんがあんたのこと
素直な良い子だって、褒めてたらしいわよ。
と聞かされた。
お母さん、るりちゃんて、
本当に素直で可愛いんだよ と
伯母さん(せいじお兄ちゃんのお母さん)に
話してた って。
私はそれを聞いて驚いてしまった。
喜ぶよりも。
身近な大人に褒められるなんて
家にいらしたお客様のお世辞以外では
それまでの人生で 先ずないことだったし、
だいいち いつも親からは
素直じゃない、可愛くない、
と真逆のことしか聞かされていず
だから自然と
自分に子供らしい〈素直さ〉という美徳は
最初から備わっていない と信じ込んでもいたから。
え…ほんとうに?
だって、作文を見せなかったのに?
だめ って断ったのに?
それに後から少し 反省はしていたけど、
思ったことを 遠慮しないでそのまま
話してしまっていたのに…
いったいどうして〈素直で良い子〉なんて思ったんだろう??
と その時の会話の内容を思い出しながら
真面目に考えてしまったくらい。
それでも
私のことを そんなふうに優しく、
親切な目で見て
好意的に評価してくれる大人もいるんだ…
という新鮮な体験は、
「親の言うことが〈唯一の正しいこと〉では
ないのではないか?」
という考えを補強し、励ましてくれるものだった。
「もしかしたらそうかもしれない」という
小さな〈自分の考え〉の萌芽に
やわらかな光を当てて 水を注いでくれるような、
体験だった。
今度せいじお兄ちゃんに会う時は
約束の文集を見せて、私の作文を読んでもらおう。
どんな感想を言ってくれるだろう?
それから他にも もっといろいろ、
音楽のことや、芸術のお話も、聞かせてもらいたいな…
そんな風に思って
次に会える機会を ひそかに楽しみに待っていた。
けれど…
せいじお兄ちゃんに
私の作文を読んでもらう事は けっきょく出来なかった。
音楽や 芸術の話を聞くことも。
数ヶ月後
私はもう家族のマンションに戻っていて
ある日 皆で夕食を食べている時に
家の電話が鳴った。
いつも通りに母が出た。
親戚のおばさんかららしい。
会話の邪魔にならないよう、
父がリモコンで、テレビの音を絞る。
「えっ!」
聞いたこともないトーンの 母の不気味な、低い声音に
私たちは一瞬 驚いて母を見たけど、
彼女が電話で話しているとき、
似たようなことはよくあるから
皆すぐに食事(とテレビ)へと 関心が戻る。
5分ほど話して電話を切った母の様子が
どこか変なので
なんとなく皆が注目する。
母は電話を切ったままの姿勢で、背を向けたまま
誰のことも見ずに ひとこと言った。
「せいじが死んだ」
えぇえっ!? と家族全員、大きな声を挙げる。
わたし以外は。
私は声が出なかった。
逆に 息が止まった。
動揺して 何も言わずいきなり部屋に駆け戻り、
なぜか勉強机の下に潜り込んで 膝を抱えた。
頭の中が真っ白になる って
その時は気づいていなかったけど、
今にして思えば
あの時が正に その状態だった。
急に走って部屋に引っ込んだ私を追って
家族みんなが 部屋の戸口に集まって来ていた。
私はそれに気づいて顔を上げ、みんなを見た。
母が言った。
「明日、みんなで◯◯おばちゃんの家(せいじお兄ちゃんの家)に行くから。
朝、学校に電話して、しばらくお休みしますって言うから」
まだ新学期が始まって
何週間も経っていない時期だった。
私たちきょうだいは 人生始まって以来の
大きなショックを受けた…
以下は少し せいじお兄ちゃんの個人情報が入るので、
カギをかけますね。
彼のことをもっと知りたいと思って下さるかただけ、
どうぞお進みください。
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