
長年の問いから解放された 「自分とか、ないから。」
「自分とは何者なのか」という問いを、中学生のころから持っていた。
それは思春期特有の、単なる不安や迷いや悩みなのだと思っていた。
大人になれば、「自分」というものがわかるのだろう。
あれから50年弱の年月が流れ、大人どころかもう老人になろうかという年頃になったが、まだ「自分とは何者なのか」ということがわからない。
そんなとき、南直哉さんの「禅僧が教える 心がラクになる生き方」という本に出会った。
この本で私は、仏教の考え方に触れ、仏教では「自分」というものには確固たる根拠がないものとされていることを知り、根拠がないのだから「自分」を探す必要はないのだと知った。
むしろ根拠のないものを探すことほど、つらいことはない。
証拠もないのに、犯人を捜すようなものだ。
仏教、面白いな。
もっと知りたい。
そしたらまた、こんな本に出会った。
「自分とか、ないから。」
著者のしんめいPさんは、noteで「東洋哲学本50冊よんだら「本当の自分」とかどうでもよくなった話」という記事を書いて、それがきっかけで本の出版に結び付いたらしい。
この本も、この記事と同じく、まるで居酒屋で友達にしゃべってるような口調で書かれていて、非常に読みやすい。
「自分」というものは存在しない。
身体を作ってる細胞は、3か月ほどで入れ替わってるし、そもそも身体を作ってるのは食べ物 (自分以外のもの) である。
感情だってどこからか湧き上がってくるもの。
今から「嬉しい」と感じるぞ!と言って嬉しくなる人はいない。
宇宙規模のつながりの中で、たまたま今こんな「私」ができあがってるだけなのである。
そんなふうに考えると、確かに「本当の自分」とかどうでもよくなる。
自分は宇宙のつながりの中にある、宇宙の一部である。
みんなつながっている。
海も山も川も、空も大地も木も草も、あの人とも、この人とも。
「自分とは何者か」と思い悩んでいたころ、こんなことを考えるのは、自分だけなんじゃないかと思って、誰にも話せなかったけれど、何千年も前から考えられ続けていた問いなのだと知り、それだけでも自分は一人じゃないのだと、気持ちが軽くなった。
もっと東洋哲学のことを知りたいな~と思いながら読み進めてると、あとがき部分で「東洋哲学本を読むコツ」ということが書かれていた。
それは、「知識」を目的にしないこと。
この本は実は、話があってから書きあげるまで3年くらいかかったらしいんですよ。
そのために、著者のしんめいPさんは、膨大な数の本を読み、高名な大学の先生や僧侶の方々からも何度も話を聞き、自分のダメ体験もさらけ出して書いた、いわば魂の1冊なわけです。
そんな人が、「知識を目的にするな」とおっしゃる。
東洋哲学は「楽になるため」にあります。
中略
東洋哲学の本を選ぶときは、「知識」でもなく「悟り」でもなく、とにかく「楽になる」ことを目的にする。
ハッとした。
確かに東洋哲学、仏教の教えを知り、長年の問いから解放された。
心が軽くなった。孤独感がなくなった。
それだけで私には十分だったのだ。
ちょっといい知識を得ると、世界をこれで語りたくなるくせがあるので、本当にヤバイところだった。
私的に、このあとがきが一番心に響いた部分だった w
これからも、また生きててしんどいなと思う日が来るだろう。
仏教は、一切皆苦と教えてるわけだし。
そんなとき、苦しくてもつらくても大丈夫なんだと思えるように、またこの本を開きたいと思った。