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カミしか勝たん!


(画像)「刑事ゴルゴダ十三jusoの休日」より

あぁ、カミよ告白します。

罪深いわたしは文章を紙で、つまり、紙の本をこう、手に持って、
そうして読みたいのです。

こんなことをよくもぬけぬけとSNSの場で言えたもんだ。
もしかしたら追放?私は今日からノート難民なん?
とかめちゃくちゃびびりつつもこれを書いている。
同じようにお思いのお方もいらっしゃるかもと望みを抱きつつ。

もちろんネット上で文を読むのも書くのもよいと思います。
私もこうして書いていますし、みなさんがお書きになるものをたのしみに拝読しています。
もはや完全に生活の一部。
ただ私の場合ですが、
ネットでは簡潔で読みやすい文を求め、長く難解なものは避けがちです。
輝度が高いせいか圧が強い気がする。
紙の文字と下地のように視線を吸収して思索へと誘い込んでくれる余地がない。
常に画面から跳ね返ってくる粒子を受けながら文字の上を滑って行く感じ。
だからか内容が心に入りにくい気がする。

とか言っていますが、結局は紙が好き
いやヤギではありませんわたくしはと念のため断言して話をつづけます
紙が好きなんですよね、書くのも読むのも。
子どものころからそうしてきましたし。

紙の本だと紙面が湾曲するし、光陰も微妙に生じる。
一枚一枚ページをめくっていく、その感触と心の動きはつながって、おそらくは不可分。
本を手に持った感触でどのくらい読みすすみどのくらい残っているのかもわかる。

若いころ新聞奨学生でした。
来る日も来る日も新聞を触って生きていました。
夜明け前、梱包を解いたばかりの新聞は熱く、インクの匂いがする。
手触りと匂い。
今でも自分が配っていた銘柄の新聞は触っただけでわかります。
感触が違うんです。銘柄によって紙質もインクも違うと思う。
さらには紙面構成やフォントなど、見掛けも違います。
これは本とかほかの印刷物にも言えることだと思います。
ネットでも見掛け上の違い、個性は紙媒体同様にあるでしょう。
でも、紙だと手と目、鼻を通して直接的に伝わる何かがある
気がする
のかもしれない

陶片追放直前の罪人が告ぐ(のか)
本も新聞も、ネットに負けたらあかん。神で(ぁ変換ミス)紙で生き残ってほしい。
紙の文化は不滅だ。これからも紙で読みつづけたい。毎日読みつづける。
変換ミスではないけれど、紙こそ神なのだ!

あぁ、追手が参りました、ご加護をカミ様!

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