インドシナ
カトリーヌ・ドヌーブが美しい「インドシナ」は、映画館で観た。
『ヴァンサン・ペレーズは「目で殺す男」と呼ばれているんだって!』
と友人が言っていたっけ。
私は、そんなに好きではなかった。
カトリーヌ・ドヌーブの言葉が目に入り、インドシナという映画のことを思い出したのだ。
「もっとも美しい歳はいま、だなんて言わない。」
「歳を重ねることを楽しむと言う女性は、嘘つきだと思う。もしかして彼女たちは無意識に自分に嘘をついているのかもしれないわね。」
50歳の時の言葉だそうだ。
美しいと言われることを、重荷に感じると言う。
女優ならではとも言えるけれど、時間との戦いであり、チャレンジであるという。
楽しむ、楽しまないを別にすれば、体力も容姿も確実に衰える。
加齢への覚悟を語るとき、正直で率直だ。
60歳での言葉は、シャネルの言葉にも似ている。
三十五歳をすぎると、いわゆる美貌は衰える。
それからは、そのひとの内面、人間性が美しさの鍵になる。
私は尊厳をもって歳をとりたいわ。
カトリーヌ・ドヌーブが魅力的だと思うのは、
『すべてを見せないひと、そのひとの表情の奥にあるもの、言葉の奥にあるものを、自分も知りたい、経験したいと思わせるようなひと。』
だという。
本の中では、哲人でもありアーティストのセルジュ・ルタンスが
「官能的な女性とは?」と言う問いに対し、
『注意深い無関心、目立たぬ好奇心、見せびらかしでない図々しさ、これが完璧に調合されたもの。』
と答えたのに通じる、と書いてある。
インドシナという映画は、1930年代、フランスの植民地だったインドシナに独立運動が起こり始めた頃、インドシナを深く愛しつつも引き離されていくフランス人女性と、独立運動に身を投じたその養女の人生を描いたものだ。
インドシナの風景や、当時の建物、船・・・色々思い出す中で、なぜか、私は奴隷売買の場所で、離れ離れにされる家族が一番心に残っている。
後半に、養女カミーユもまた、夫や息子と離れる運命となってしまう暗示のようだった。
ベトナムの世界遺産ハロン湾も出てくる。
そして、インドシナを見ながら思い出したのは、マルグリット・デュラスだった。
本棚に『Durasデュラス』がある。
この中に、インドシナで少女時代を過ごしたデュラスの写真がある。
1998年初版の本だ。
この本は、『アルバム=デュラス伝』と帯に書かれているとおり、少女時代から歳を重ねて最期に至るたくさんの写真と文章で、その生涯が綴られている。
占領下インドシナの頃の家族写真や、メコン川や建物の写真もある。
初めて見たころのあのよどんだ川の水にもどり、インドシナ半島が夜の明けかかる頃時おり架空の予感を与えてくれる、あの一つの融合感へもどるにはどうすればよいのか?
そして、インドシナを引き揚げる。
途中、戦争の辛い時代の文章に「私の人生は暗い沼です」という言葉が出てくる。
そこを形成期として、墓穴を埋めるように書く。
作家デュラスの抱えている「闇」は強調され、それを生涯貫く導線とは・・・。
「一冊の本が・・・そう・・・出版社に渡されると同時に、生きている作家は死に見舞われるのです。私が死んでも、決別するようなものはなにもありません・・・私を定義するものの本質が私から離れてしまっているでしょうからね。作家というのは生涯の一行ごとに自分を殺しているんです。それでなければ書いていないことになります」。インドシナ以来、実情はいつもそうだったのだ・・・自己の減退、メコン川の湾曲部に沿っての女乞食の放浪、一日たつごとに自分自身の一部がどこかへ行ってしまい、最後には全体の中に溶解してゆくような感覚。
「言葉の奥にあるものを、自分も知りたい」
と思う作家であるがゆえに、読まれるのかもしれない。
以前、デュラスの「モデラート・カンタービレ」について書きました。