CROSS
銀座8丁目に福家書店があった頃のこと。
まだ、20代だった。
そこでスターリングシルバーのCROSSに名入れしてもらった。
すでに就職していて、パッケージの校正に自らサインを入れるときに、きちんとした筆記具を使おうと思ったのだ。
当時は、何度も赤を入れるたび、印刷会社の方の手を煩わせた。
間違いだけではなく、こちらの都合で原材料表記などが修正になることもあった。
印刷立会で最終的な色合わせをする時には、やり直しが続いたり、印刷機の不具合が起きたりで夜中の2時を回ることもあった。
携わってくださる方に敬意を払い、責任を持ってサインさせていただくという気持ちを持ちたいと思った。
当時の私にとっては高い買い物ではあったけれど、CROSSのボールペンにしようと決めていた。
その中で、一番好きなスターリングシルバーに。
優しい光を発しているな、と今でも思う。
シンプルでほっそりとしたフォルム。
そこに優しいシルバーの輝きが加わると、女性的な感じがした。
依頼してから、1週間後に受け取りに行くと、うっすらと邪魔にならない程度に名入れしてあり、それがとても私の好みだった。
光の加減で、よくみないとわからないのが、いいのだ。
そして、使い込むほどに、自分の名前がいい具合に馴染んでいった。
私は、パッケージデザインの部署にいた。
上司はいつも、ポケットから愛用のボールペンを出して、その時に閃いたラフ案を打ち合わせ中に描いていた。
私にはそんなことができるわけもなく、ただ、いつもこの CROSSのボールペンを握りしめて、真剣に打ち合わせの場にいた。
「こんなふうに考えてはどうかな?」
と言いながら、さっと胸ポケットから取り出される、上司愛用の筆記具の扱いに、憧れてもいた。
その仕草は大人に見えた。
手帳に次の打ち合わせの日程を書き込んでいたある日、広告代理店の営業職の方が
「綺麗な光り方をしますね。そのボールペン。いつも思ってました。」
と急に言ってくださったことがある。
「いつも。」
というのが嬉しくて、お礼を言った。
私の気に入っているCROSSを見ていてくれたんだな、と思ったら、働く手元というものは、意外と目につくものなのだと改めて感じた。
仕事の「用具」も「道具」も、使う人の覚悟に近いものが込められているように思うのだ。
工具や画材、調理用具・・・長く大切にして、自分の手に馴染んでくるプロセスが楽しいのではないか。
スターリングシルバーは、だんだん鈍く素敵になっていく。
小傷がつくことさえも楽しみながら、少し黒ずんだら拭きながら、大事に使った。
少しの凹みさえ、私だけのCROSSの味になった。
壊れてしまっても直し、直しがきかなくなっても大切にしまってある。
それは、とにかく一所懸命に仕事を覚えようと必死だった頃の証人が、このCROSSだからかも知れない。
成長しようとしていた自分の証だからかも知れない。