庭仕事とは・・・魂を解放する瞑想である。
『文豪ヘルマン・ヘッセが
庭から学んだ
自然と人生に関する真理を綴った名著。』
という帯に惹かれて、読んだのはいつだったろうか。
1996年6月25日 第1刷発行
書店で平積みになっていたと思う。
パラパラと捲り、すぐに購入して読んだが、当時の私にはピンとこなかったのか、
本棚の奥にいってしまっていた。
それでも手放さなかったのは、きっと読み返す機会が来ることを感じていたからかも知れない。
サングリアを口にしながら、今後の人生の話をしていた私たちだった。
人生100年と言われるようになり、今後をどう過ごしていきたいのか。
そんな話を夏の夜にする。
今、ここが平和である証である。
「前の家のご主人が89歳で、この前亡くなったんだ。
それがね、定年してからずっと毎日、庭いじりだけをしていたんだよ。
旅行も外食もしない。車も乗らない。
いや。退職前から、庭いじりしかしていないように見えた。
10年ほど前に、奥さんは認知症になって施設に入ったんだけれども、
淡々と変わらず、毎日、庭いじりが続いていたんだよ。」
この話を聞きながら、私は見たこともない89歳の老人の庭にいた。
もしかしたら、私が絵を描いている時のように、無心であられたのではないか。
そこで、忘れていたヘッセの本を思い出したのだ。
土と植物を相手にする仕事は、瞑想するのと同じように、魂を開放させてくれるのです。
ヘルマン・ヘッセは後半生、執筆に費やす以外の時間はほとんど自分の庭で過ごした。一見、隠居趣味のように見える庭仕事の中に、ヘッセは尽きぬ愉しみと、のちに彼の文学へ結実するさまざまな秘密を発見した。「自然は寛大であると同時にまた容赦のないものある」ヘッセは庭に佇みつつ、観察し、考える。本書はヘッセが庭から学んだ自然と人生に関する真理を綴った書である。
瞑想。
そうだった。
昔、脳波をとりながら絵を描く、という実験に参加させてもらった。
私が絵に入り込むと、瞑想時に出るθ波が出てくる。
「演奏をされたり、絵を描かれたりする人は、瞑想に入りやすいんですよ。」
と瞑想の先生に言われたこともあった。
再び、ページを捲る。
安らぎや休息は残念ながら何もしないでいることではなく、
ーこのための才能を私は全くもちあわせていないのです。ー
ふだんよりのんびり暮らすこと、ある種の敬虔な気持ちをもって夏がしだいに終わっていくのを眺めて暮らしたいという欲求に応じることなのです。
夏がしだいにおとろえてゆくこの時期には、大気中にある種の明澄さがあります。
もしも画家たちが「絵画的」とい言葉を「描きやすいもの」という意味に解釈しなければ、私はこの明澄さを「絵画的」と表現したいと思います。しかしこの明澄さは絵に描くことがきわめてむずかしいでしょう。それでいて、それを絵筆によって克服し、賛美したいと果てしなく気をそそられるのです。なぜなら、色彩がこんなに深い魔的な光度を、こんなに宝石のような輝きをもつことは、この時期以外に決してなく、物の影が薄くなることなしにこのような柔らかさをもつことは決してなく、また、一切のものがすでに秋の気配に軽く染まりながら、本格的な秋の少しけばけばしく、きつい色のあざやかさがまだ始まっていない今の時期ほど植物の世界に美しい色彩が見られることも決してないからです。
「百日草」の中の、この文章を何度も読み返した。
夏は、人生の一番良い時期にもなぞらえられることがある。
失いそうになって、または失ってはじめて大切な煌めきだったと思う夏。
私は、季節の中で夏が一番好きだ。
夏が始まる時の煌めきも、晩夏の宵の風も。
文章の中の「明澄さ」から少し離れて、私の頭の中の老人が動き出す。
すべての記憶は庭の随所にあり、もしかしたら、そこにはいない妻が呼ぶ声も聞こえたかも知れない。
ヘッセは富裕な友人の好意で54歳で自分の家を建て、自分の生活に不可欠な人となっていたニノン・ドルビンと結婚したという。
以前の家族とは離れて後のことだ。
彼女は、ヘッセのような人間にとっての幸福とは、ひたすら彼の仕事に専念して生きられることだけであることをわきまえていた、と書かれている。
ふたたびガイエンホーフェンやベルンでのような生活、すなわち庭とかかわりあうことのできる生活をはじめることができるようになったのである。しかし、今度は庭は、かつての庭が自給自足と、文明に依存しない生活のために果たした機能とは、少し異なった機能をもつようになった。
本には、ヘッセの植物画や詩もある。
「イーリス」。
アンデルセム少年にとってのイーリス(あやめ)。
地上の現象はどれも比喩なのです。どんな比喩もひとつの開かれた門で、魂は、その心構えがあれば、その門を通って、きみもぼくも昼も夜もすべてのものが一体となる世界の内部へ入っていくことができるのです。どんな人間も自分の人生の途上のここかしこでその開かれた門につきあたります。どんな人間も、一度は目に見えるものはすべて象徴であり、その象徴の奥に精神と永遠の生命があるという考えにおそわれることがあります。もちろんこの門を通って行き、美しい仮象を放棄して門の奥の、予感された現実を獲得する人はわずかしかありません。
イーリスの花は、アンデルセムにさし出された無言の問いであると同時に、その中に彼を幸せにする答えが隠されているという予感が高まった、と続く文章である。
絵画療法で教わった象徴と潜在意識を思い出す。
「青い蝶」というヘッセの詩。
青い蝶がここにも・・・。
青は、直感力を表す色である。
孤独、霊性、神性。
以前、エリザベス・キューブラーロスの本の蝶について書いた。
これも、また象徴であるが・・・。
「真珠母色のにわか雨」という表現がやわらかくて神秘的である。
書くこと、描くことを続けていきたいと思います。