森の彷徨い
いつかの秋、フィンランドの森を彷徨った。
美しい泉のある森で、静かに雨が降っていた。
優しい風が、小さな葉をゆらしていた。
「ぶらぶらする」という日本語と、「Blah Blah Blah」という英語の関連について、深く考えを巡らすことがある。前者はあてもなく道を彷徨う様子を、後者は「◯◯など」というある種の曖昧さを示すときに使われる言葉だ。
辞書的には、もちろん両者の意味は異なっている。けれど、音は似ているし、その(根源的な)意味も、ちょっと似ている気がしてならない。
「ぶらぶらする」という行為の曖昧さも、「Blah Blah Blah」という言葉の適当さも好きだ。散歩の行き先はなくてもいいし、会話の終わりは余韻が残るくらいがちょうどいい。
彷徨いは、きっと心も体も自由にするんだ。
雨の降る森を、ぶらぶらと彷徨った。森の奥にきれいな泉があると知っていたけれど、そこは、行き先ではなかった。歩くことが、その彷徨いの全てだった。
雨の音、
耳を澄ませて歩くこと。
青い緑、
目を凝らして見つめること。
雨と水、緑と光。
深い森へ、水のゆく先へ。
生物の様に呼吸する、生きた泉に出会った。吸い込んだり、吐き出したり。規則的なように見えて、でも全く予想ができない不規則的なその運動は、例えるならば、蝶のはばたきのようだった。
水の中で蝶がはばたいている頃、地上では、雨風が木々の葉がひらひらとゆらし、水面へと散らせていた。例えるならば、それは蝋燭の炎の1/fのゆらぎのようだった。
彷徨いは、自由にする。
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