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Nordic Journal

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lumikkaがお届けするオリジナルのコラムシリーズ。雪の結晶のような小さな視点から日常を見つめ、そこで発見した美しき風景や思考をお届けします。
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記事一覧

ARABIAと、150年の記憶

フィンランドを代表する陶磁器メーカー ARABIA社は、1873年にヘルシンキ郊外のアラビア/ARABIA地区で生まれました。フィンランドが国として独立したのが1917年ですので、それよりもさらに半世紀ほど前からこの地で器をつくり続けていたことになります。 旧アラビア工場への旅の様子を以下のコラムにまとめています。合わせてどうぞ、ご覧ください。 創業から現在に至るまでのあいだ、独立や戦争、不況、グローバリズムなど、さまざまな(というひと言では足りないほどの)時代の変化があ

白い華、雪の歌

雪を、花にたとえた歌があります。 冬だというのに空から花が散ってくる。 雲の彼方はもう春なのだろうか。 と、降りゆく雪を純粋なまなざしで捉えた古今和歌集の名歌ひとつです。1000年も昔のこと、とおい過去から届いた雪の歌です。 雪はしだいに溶けて消えてしまうけれど、雪がもたらす感情は言葉として永遠にとどめておくことができる。永遠なんてありえないのかもしれないけれど、永遠を祈って詠まれた歌は、美しいと思う。 天から舞い散る、白い華。 雪が歌う、雪が踊る、冬の空の下。 あ

雪の言葉、オーロラの色

「雪は天から送られた手紙である」 世界で初めて人工雪の結晶を作ることに成功した科学者、中谷宇吉郎はこう言葉を残しています。ひとつとして同じ形のない雪の結晶。それはたしかに、文脈に応じて多様に意味を形成する「言葉」そのものに例えることができそうです。降り積もった雪。それは天からの言葉の集積で、人々のための地となり道となり、さらなる方へと導いてくれます。 雪の上、夜の下。 星々に手を伸ばしても届かないけれど、無限の遠さは感じられない。そういう曖昧さを含んだ距離のなかで、地球

白銀の彼方へ

遠く、遠くの雪の国。 遥か彼方、北の果て。 北緯66度に位置するロヴァニエミは北極圏にあり、冬になると北の果てを目指す人びとが世界中からやってきます。(北極圏とは北緯66度33分以北の地域のこと。グリーンランドやアイスランド、シベリアやアラスカなどの限られた地域が属しています。) 北極圏の冬は、冷たく厳しい過酷な世界。数年前に訪れた11月のロヴァニエミは、日中でも-12度でした。しっかりと防寒をしていても、30分ほど外にいるだけで手先や鼻先が痛みを伴うほどすっかり凍えてし

夜と夢

夜、夢を見ている時、それが「夢を見ている」という現実か、「夢」という幻想であるのか分からなくなることがあります。その世界を見ているのか、或いはその世界の中に生きているのか。夢は現実なのか、夢は結局夢なのか。 夜、雪の積もる針葉樹の森を歩いたことはあるでしょうか。深い闇が空の青さを、深い雪が街の気配の一切を、消し去ってしまう。そのような孤独を伴うの夜の森は、人々を夢の世界へと誘います。 人が「夜」に生きるようになったのはいつからでしょう。街灯も、街の明かりも存在しない太古の

雪と空虚

ある雪の日のことでした。 外の景色は浮世絵のように細く白い線が重なっていて、開けた窓から入り込むぴんと冷たい空気は部屋の温かな空気と、そして身体の温かさと混ざり合うのを感じていました。まだ夜の遠い、昼下がりのことだったと思います。 何月のことだったか、実際のところはよく覚えていません。冬のような秋だった気がしますが、冬がまだ残る春だったかもしれません。数年前のヘルシンキでのことです。 雪の日には、やらなければならないことがいくつもあります。ひとつは、天を見上げて上昇する

秋の島

ヘルシンキには、「羊の島」があります。名ばかりではなく、夏になるとほんとうに羊がやってくるのです。 前回のコラムでは、ヘルシンキの中心地からから北東に抜ける6番線のトラムの秋の車窓をお届けしました。その終着点にあるのがイッタラ&アラビア デザインセンターで、さらにその少し先にあるのがLammassaari/ランマサーリ、フィンランド語で羊の島です。 トラムの終着点からさらに先へ。秋の小道を潜り抜けて、人びとの行方に身を任せていると大きな橋があらわれます。犬の散歩をするご近

秋の街

秋の風がそよぐ美しい季節がはじまろうとしています。 実はこの言葉、過去に書いたとある文章の冒頭なのですが、いま、また同じことを思っています。 「時間」が線のように連続しているのか、あるいは点として離散しているのか……と、大きすぎる問いが頭を巡ることがよくあります。しかし、思考は宇宙の果てまでを巡ったのちに、結局いつも目の前の現実/現象(の確かさ)へと行き着いて、しまいには何を問うていたのかすら忘れてしまうのです。 人が、同じ季節に同じことを思うのだとしたら、人の生とは、

水の惑星

あの小さな月が、地球の海を引っ張っているだなんて。そう宇宙の不思議に想像を巡らすことがある。 月まで、38万キロメートル。それが“近い”のか“遠い”のかどうかは分からないけれど、月と地球がそれほどの距離のなかで繋がりあっているということ。それは、この孤独な宇宙の小さな希望だと思う。 地球と月——つまり水の惑星とそれをまわる小さな衛星のことを考えていると、日本とフィンランドの距離などちっぽけに思えてくる。結局は、ひとつ青い球体の西と東でしかないのだから。 波に目を凝らす。

秋霧の湖

少し冷え込んだ秋の朝。 霧が森を、湖を、包み込む。 フィンランドの、とある小さな田舎町。 空気は澄んでいて、空はもう十分に青かった。 遠くの景色はおぼろげで、歩けど、歩けど、見ているその「景色」には近づけていない気がする。霧は大きな波のように流動しているけれど、その行き先はわからない。 長い一本道を進んで、湖まで。 湖の表面を滑るように、霧が流れてゆく。 畦道を通って、湖畔まで歩く。 着々と昇る太陽は地と水と空気をあたためて、わたがしのような霧を溶かしてゆく。 あか

秋霧の森

フィンランドの秋の森。 秋霧に包まれる小さな町。 ある日の、早い朝のこと。 朝、窓の外が白いとき、心は弾む。 春の霞と夏の雨、秋の霧と冬の雪。 季節は、窓を介してやってくる。 扉を開けて外に出ると、湿った空気が肌に触れた。視界はぼんやりとしていて、まだ少し眠たい目にはちょうどよい。夜ほど暗くはなかったけれど、昼ほど明るいわけでもない。すべてが曖昧で、抽象的な世界に迷い込んだようだった。 白い霧は視界の奥行きをぼかして、見ている対象は、いっそうはっきりと知覚される。風景

森の彷徨い

いつかの秋、フィンランドの森を彷徨った。 美しい泉のある森で、静かに雨が降っていた。 優しい風が、小さな葉をゆらしていた。 「ぶらぶらする」という日本語と、「Blah Blah Blah」という英語の関連について、深く考えを巡らすことがある。前者はあてもなく道を彷徨う様子を、後者は「◯◯など」というある種の曖昧さを示すときに使われる言葉だ。 辞書的には、もちろん両者の意味は異なっている。けれど、音は似ているし、その(根源的な)意味も、ちょっと似ている気がしてならない。

トゥルクの夏

季節の巡りを感じるとき、 そこには祝福と空虚がともに存在している。 季節への祝福は、 人が自然と生きている証であり、 過ぎし時間への空虚、 それはノスタルジーである。 ふと、思い出したトゥルクの夏。 それは、たしかに夏であった。 夏の風が、吹いていた。 ヘルシンキと比べると、トゥルクの街はずいぶんと明るく、鮮やかに感じられた。地理的にも歴史的にもふたつの街には違いがあるのだから、その新鮮さはある意味当然とも言えるけれど、この街は、なんだか明るかった。 「トゥルクがあ

空港の朝

空港の朝は、なんだか心地がよい。 するどい光は大きな空間を明るさで満たし、忙しない朝の人びとはパンとコーヒーによって満たされる。 それはきっと、平和な世界だ。 早すぎるフライトや、持て余された時間が、かえって朝のひとときを豊かにする。偶然が出会いを導いて、開かれた空間があらゆる人びとを包み込む。 歩く人、休む人、食べる人、迷う人。 眠たい気持ち、晴れやかな気持ち。 夢見心地や上の空。