オールドメディアが信頼されるためには?
兵庫県知事選挙を発端とするSNSとオールドメディアの対決は今後も続きそうです.個人的にはオールドメディアもオールドメディアなりのよさというものがあって,どっちの情報も大事にすべきという立場なのですが,日本において「報道する」という行為に対して変革期が訪れているのは間違いなさそうですね.
実は今回の現象には既視感があって,2000年前後から急速に高まった医療不信と似ているなと感じます.2000年以前の医療は「お医者様」が決めたことは絶対で,それに盲目的に従うのは当たり前という世界でした.疑問や質問をしようものなら不機嫌になって,「ワシの言うことが聞けんのか!」というような開業医も多くいましたね.
ところが2000年頃からインターネットが急速に普及するに従って,患者が自ら医療の専門知識を簡単に手に入れられるようになりました.もちろん,中には「がんは治療しなくても治る」などの怪しい情報を信じたり,自分と他人とは病状が全く違うのに「この薬でうまくいきました!」という情報を鵜呑みにする人々も大勢いて,医療業界では「専門家でもない患者が勝手に情報収集するのは悪いことしかない!」という論調も多々見受けられました.まるでオールドメディアで展開されている今のSNS批判と瓜二つです.
一方でネットや情報の氾濫を止めることはできないわけで,そんな文句を言っても解決しないし,患者が色んな情報を得て自分の判断を決めていくのは当然の権利ではないかという欧米からの動きもあり,医学教育ではパターナリズムの弊害というものを早期から教育するようになりました.最近の若い医師は大学で反パターナリズムの教育を受けているので,「ワシの言うことを聞いとけばいいんだ」という医者はほとんどいないと思います.
その中で医者が専門家として自らの意見や判断を患者に信じてもらうためにどういったことをすればいいのかということも色々模索されてきたわけです.その一つがガイドラインの整備とEBM/NBMの普及です.単に1エキスパートの意見というだけではなく,その意見には論拠があると示すために,複数の論文などを根拠にしたガイドラインが策定され,もちろんガイドラインそのままに医療を行う必要はないのですが,「ガイドラインではこうなっているからこの医療がおすすめです」「ガイドラインはこうなっているが,あなたにはこういう事情があるから,ここは修正してこの治療方針がいいと思う」というような「丁寧な説明」を医者側から積極的に行うようになりました.実際に判断理由をちゃんと説明すれば患者からの信頼も高いですし,変な情報に流れていってしまうという人も少ない印象があります.変な情報を持ってくる患者がいたときも頭ごなしに否定せず,もしその情報が本当ならこんなことが起こるはずだが,それが起きていないので多分違うと思うよ,といった意見を言ってあげるだけで行動が変わることもあります.
今のマスコミに一番足りていないのは,自分たちの報道が真実らしい情報であるという根拠を読者や視聴者に丁寧に説明できていないという点ではないでしょうか.もちろん番組の時間には限りがあるし,取材源の保護などの問題はあるとは思いますが,ニュース一つ一つに裏取りを含めた取材過程や情報の検証過程を説明したり,これは提案なのですが,一つの尺に対してどこまで情報を確認したか,自分たちの推測や意見は含まれているのか,ということに関して定形的なチェックリストを作ってデータ放送やウェブサイトで同時に流すだけでも信頼度は格段に上がります.
YouTube動画でもやはり取材過程・思考過程や論拠を提示している動画は長くても信頼される傾向があるので,オールドメディアが自らを信頼してほしければSNSを批判するのではなく,まず自分たちの情報の出し方や説明の仕方を変えた方がいいのではないかと思いますね.逆に言えばチェックリストを出したり,取材検証過程をちゃんと説明していれば,無理に公平中立である必要性はないと思います.
あともう一つは医療でもそうですが,SNSなどにある噂に疑問を呈するときも,なぜ自分たちはそう思うのか,その根拠を示していくことだろうと思います.SNS情報に疑問を呈するときも「◯◯までは自分たちも確認できたが,その先は複数の情報源を確認できなかったので,当社としては真偽を判断できない」というような説明があれば信頼度はぐっと上がるはずなのですが,ジャーナリズムの世界には,自分たちの限界を示すことに対して強い恐怖感でもあるのかと思うほど,この手の説明は出てきません.
彼らの高等教育のもとなった人文系アカデミアの習慣にその辺の問題があるのかもしれませんね.いずれにしても2000年前後の医療不信を大きく煽ったのはセンセーショナルなマスコミ報道によるところが大きいのですが,今度は自らの「報道不信」に対してどのように対峙するのか,ジャーナリズムとしての真価が問われることになるでしょう.