映画「怪物」-人の中に住まう怪物の正体とは-
映画「怪物」を観た。フランスの映画祭では日本映画というのは割と評価が高いイメージがある。そこには何かしら共通する感情的な特徴があるような気がしてならないが、坂元裕二脚本、是枝裕和監督作品ということで日本でも注目の話題作となっている。いつもは子役には台本がほとんどない状態で口伝えで演技を付けていくという手法が有名な是枝監督が、今回は台本をきっちり渡して望んだということで、ここからも坂元脚本への厚い信頼が窺える。
ここからは本編のストーリーに絡む表現もあるため、これから鑑賞予定で事前情報を入れたくない方には注意が必要であることを最初に断っておく。
視点1.シングルマザー
この作品のレビューなどを読んだことがある方はお分かりかと思うが、この作品はとある事件を軸に、それぞれの立場からの視点が順に描かれることでストーリーが進んでいく。その中で観る側は果たして真相は何なのか己の立場や心情を絡め取られながら、探る気持ちにさせられる。
まず登場するのが、安藤サクラ演じるシングルマザー早織。
この物語の起点は、とある街で起こったビルの大規模火災。轟々と燃え盛る炎を自宅ベランダから眺め、まさに対岸の火事の心理で無責任に消防士に向かって「頑張れー」と叫ぶ早織。年頃の息子である湊から嗜められてもやめない早織。シングルマザーであることはすぐに明かされるが、見ているこちらは何となく彼女の粗野な言動が頭に刻まれる。
ただ彼女の呑気な様子にはこのあと少しずつ暗い影が落ちていく。湊の様子がおかしいのだ。父親不在で人一倍彼の様子に心を砕いてきた彼女は、ついに湊の担任のおかしな言動と暴力をふるわれたという事実に怒りが頂点に達し、学校に乗り込む。
ところが学校側は、最初から及び腰で当の担任に至っては全く反省の色が見られない。男親のいない心細さがより身に染みる彼女は、女の代名詞とも言われるヒステリーを必死に覆い隠して冷静に話そうと努めるが、そんな気遣いも踏みにじられる行為についに感情が爆発してしまう。
自分が大切なのは、忘れ形見である息子の湊、ただそれだけ。学校に非を認めてほしいだけなのに、なぜこんな理不尽な仕打ちに遭うのか。彼女の心は悔しさと怒りとで埋め尽くされていく。
視点2.担任教師
私たちは早織の視点から、次に登場する担任の保利には相当に疑念を抱いた状態になっている。若く、ほっそりした印象の彼は他の教師に連れられ、早織の目の前に来た時にも棒読みのように借りてきた謝罪を並べるだけで、全く反省の色も見せない。ついには、衝撃的な言葉である「お前の脳は豚の脳だ」との発言も認めた教師は、早織のママ友の噂話の「あの火事の日、ガールズバーにいたらしい」という尾ひれもついて、不誠実で何を考えているかわからない、欲求不満の教師失格の印象が植え付けられている。
ところが彼の視点になってみると、見え方がまさに180度変わる。教師という仕事に真面目に向き合おうと、生徒にも彼なりに都度真剣に接しており、湊の問題にも誠実に対処しようとする律儀な性格が見え隠れしている。
広奈という恋人がいて、普段は普通の男。少し頭でっかちな部分はあるがクラスで起こった事件にも真相を知ろうと努力していた。けれどそれを制止するのが、不気味に本心が見えない柔和な仮面を被った校長とそれを取り巻く、モンスターペアレントに慣れ過ぎ、うんざりしている教師たち。いわば、保護者たちはいつかの保護者たちが撒いたタネの被害を被っているとも言える。
視点3.子どもたち
結局、ことの真相は何だったのだろうか。観ていると、子ども同士の無意識の悪意や差別意識が、子どものつながりを強くも脆くもしている実体が浮かび上がってくる。
「いじり」「ドッキリ」などという軽やかな言葉に乗せて、子どもが子どもをバカにしたり貶めたりする。その餌食になってしまうのが、周囲よりも勉強に遅れのある幼い見た目の依里。
湊は依里が好きだし、共に過ごす時間を何より大切に思うが、湊は依里と仲がいいことは他の仲間には絶対に知られたくない。自身の想いと、社会における自分の態度との乖離に苦しんでいく湊。正直な気持ちをオープンにできない苦しみは、彼をどんどん孤独へと押し流していく。
怪物、とは
三者の視点を巡っていくと、ことの真相は実に単純でおおもとの悪は、己の理想とかけ離れた家族像に落胆し必死で作り直そうと我を押し付ける依里の父なのではと思えてくるのだが、そこに代表される「大人の作ったわがままな社会の犠牲になっている」のは「子ども」という図式が見えてくる。
早織は教師たちと相対するとき、女親一人であるということに舐められたく気持ちが必要以上に壁を作っている。そしてママ友からの噂話もあり、最初から担任教師にはやや疑念を持った状態で学校に乗り込んでしまう。女であるということも加担し、のらりくらりとした態度にバカにされていると怒りの感情が増幅する。それは彼女が理想とする、自分一人が育てた息子が大人になり、平凡でもいいから幸せな家庭を築く、という未来に固執しているからだ。
ただ保利も、モンスターペアレント、一人で育ててくれた母への感謝などがないまぜになり、早織の態度に理不尽な思いを隠せない。そして、よく見聞きする陰湿ないじめ問題や、犯罪のサインである動物虐待など、実際に見たもの以上の感情を増幅させたのも事実。だから過ちに気づくのが遅れてしまった。
この物語では、見たものだけで判断することの難しさをまざまざと見せつけられる。見ている私たちも、登場人物以上に見聞きしたものや、己の考え、そして偏見や差別意識などを通して気持ちを揺り動かされるわけで、それが全くない状態で感じ、判断するのはとても難しい。
火事を起こしたのはあの人ではないのか、あの人は本当は他人に罪をなすりつけて平然としているのではないか、あの人は虐待しているのではないか、あの人の死の真相はこうなのではないか、あの人は本当は怪物なのではないか。
怪物とはそれぞれのフィルターが引き起こすものであり、種類や大きさは違っても誰しも怪物を抱えて生きている。それが肥大し、抱えきれなくなった時、理性を破って表出し他人を傷つける。
私がこの物語で一番印象的だったのは、保利の恋人である広奈。
美しい顔で、丁寧なメイクを施し、男を夢中にさせる魅力を備えたキャリアウーマン。保利は夢中であるがそれを受ける態度はのらりくらりとしていて、まともに付き合う気はないように見える。
彼女は常識人の顔をして、保利が直面している事件についても、まさに対岸の火事のように見物人の姿勢で無責任に断罪し、励まし、批判をした。これはそのまま、SNSなどで見聞きした情報を真実かどうかなど考える余地もなく、手軽に怒り手軽に批判し手軽にリツイートする当事者でない私たちの姿と重なって見える。
だよね、すべき、しろ、などと言葉を吐き捨て、すぐに忘れていく後ろ姿は清々しいほどに美しい。何食わぬ顔をして、自分だけはいい感じに浸って、改めることもなく、巻き込まれることもなく立ち去っていく。
高畑充希演じる広奈が鑑賞後もしつこく、私の中に残っていた。
それぞれの立場を生きる社会という魔物を、純粋な心を踏み荒らされた子どもたちが無邪気に横切り、走り去っていく。その中でいくつの真実を、自分は判断することができたのか。鑑賞後もずっと考えている。
※画像はHPよりお借りしました。