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選択しなかったものの価値

学生時代、特に興味を持てなかった経済学。
一般教養課程の中にあったから勉強したけど、圧倒的文系のわたしはやっぱり苦手だった。

大学一年生で学んだことなんて正直ほとんど忘れてしまったけど、"opportunity cost" の概念だけは印象的だった。

この記事を書くにあたって調べてみたら、日本語では「機会費用」と訳されてるみたい。ほぼ直訳だけど、初知りだ。


高校入学から大学卒業までの全ての履修内容を英語で受けたわたしは、そのほとんどを英語で記憶してしまっている。

Googleによると、機会コストとは「ある決定を下した際に他の選択肢から得られたであろう利益のこと。」だそう。

これは経済学でありながら非常に哲学的で論理的な考え方だと感じた。哲学大好きなわたしが興味を持てたのも不思議ではない。

チョコレートケーキとショートケーキ、どちらを食べようか迷った時、どちらも食べるという選択は可能だけど、日本の大学に行くかニュージーランドの大学に行くか迷った時、どちらも選ぶことはなかなか難しいだろう。


常に最善の選択をしたいと思っていた当時のわたしには、決断を下すことへの真剣さや慎重さを肯定してもらえたような気がした。

なにしろ先ほどの大学の例は、わたしのことだ。元々大学は日本に戻る予定だったが、直前になってニュージーランドで進学することになった。

心から行きたいと思う大学に出会えていなかったわたしは、何度も悩んだ。あわよくば日本の大学とニュージーランドの大学、どちらも行きたかった。なんで身体は一つしかないんだろうなんて思ったくらい。


卒業した今でさえ、どちらも行きたかったという心残りが少しあって。実際、日本とニュージーランドの修士どちらも持っている友達や先輩もいるが、そこまでの経済力と頭脳は持ち合わせていなかった。

人は何か選択するたびに、何かを手放している。「選んだ方の利益」と引き換えに、「選ばなかった方の利益」を。


大学生活では死ぬほど勉強した。「日本でこんなに勉強してたら頭おかしいって思われるよね」なんて言いながら。同級生だった日本人の友人二人のうち、一人は血尿が出て、もう一人は円形脱毛症になった。わたしは病的な症状まではなかったものの、心身ともに疲弊していた。

でも、そんな環境に置かれない限り、あそこまでの勉強量をこなせなかったということは確実だ。「学生の本分は勉強」だと唱えながら、自分に言い聞かせながら駆け抜けた日々。常に気を張って、時間があれば本を開いた。

卒業後はしばらく燃え尽き症候群で、本当に辛かったけど、そこで出会えた仲間は宝物だった。もっと遊びたかったとか、恋愛したかったとか、青春っぽいことしたかったとかいう後悔もないと言ったら嘘になるけど、日本の大学に行ったからってキラキラした日々が送れていた確証もない。


何かを選ぶことは、何かを捨てること。就活の間は、「自分の選択を正解にする」という言葉が響いた。振り返っても過去には戻れない。だったら前を向くしかない。

「留学にお金はかかるけど、わたしは環境を買ってると思ってる」と友達に話したら、「深いね」と言われた。



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