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言語と主観についての考察

たまたまこんな記事を見つけた.

自分もこういう類の話を考えることが好きで,特に言語に関しては多少興味がありほんの少しだけだが言語学の勉強もしたことがあるので知識のアウトプットも含めて自分の考えを書いてみたいと思う.勉強したとはいえど齧った程度なので誤解なども多くあると思うので,もし誤りや賛成・反対意見があればコメントしていただけると嬉しい.

(コメントで返信してみようと思ったのですが,余裕で文字数オーバーしていたので自分の記事から引用という形をとらせていただいています.)


言語と主観の分離

反論その2における言語と主観は切り離せるか?という点に関しては、近代言語学の父と呼ばれるソシュールによるラング(Langue)とパロール(Parole)の対立を思い浮かべた.ラングというものはよりマクロなもので,ある言語を話す集団の中で共有された文法や語彙などの総体とされていてこれは主観とは分けられるものである.ちなみにパロールとは,各会話におけるその言語の使用のことである.言い間違いや特定の人の間でしか通じないスラング・ミームなどはパロールに属すると考えるとイメージしやすいと思う.

ラングの中においてそれぞれの語の意味や役割(価値=valeur)は単独で存在する絶対的存在ではなく,他の語との関係により相対的に決定される.水はジュースでも油でもないし,人は犬でも機械でもない.もう少し非自明な例を挙げると,「波の音が聞こえてくる」とは言うが「波動の音が聞こえてくる」とはふつう言わないであろう.しかし波と波動が指すもの自体は同じはずである.引用記事では愛国心という語の例を出していたが、これは主観的な問題というよりは日本語の語彙体系と英語の語彙体系が別物であるためそれぞれの言語における愛国心という語の意味(価値)も違うと説明できる.

一方で,ラングというものも時代によって変化する.これはパロールのレベルにおいて起きる,語の価値の変化の積み重なりによります.先ほど特定集団のスラングやミームがパロールに含まれると書いたが,これが徐々に広まり言語使用者がみな知って使うようになればそれはラングに組み込まれたといえる.パロールというのは個人レベルでの言語の使用のことなので当然主観というものが含まれると考えられる.愛国心についても,日本とアメリカという集団における歴史の違いが徐々にラングに反映されたと考えられる.しかし,ラングに変化が及ぶような場合、そのような変化に主観が介在しているとはもはや考えられないと自分は思う(ただもちろんこれは主観の定義に依存する).

言語が果たす役割


メインテーマである言語化と客観視の関係については,自分としては「言語というものは主体を外部からアクセス可能にするインターフェースである」と考えている.ある人が話した内容自体(パロール)には主観が含まれるが,ラングの規則に則って何らかの文章を発している以上それは客観的要素として考えられる.それは上で述べた通りラングが主観を含まない存在であるからだ.逆にいうと,言語化をラングを無視して行った場合はこれは客観視につながらないであろう.このように文章化をすれば自己分析ができるというのも正しいわけではなく、文章化の仕方と文章化されたものの扱い方が大事だと思う.

具体例として自分がたまにやる自己分析の手法を説明すると,まずは自分の主観を他人に説明するように書き出す.自分自身や自分をよく知る人物が読んで理解できるレベルではなく赤の他人が読んでも理解できるようにする.書き終わったら,今度はそれがあたかも他人,もっというと機械が書いた文章であるかのように分析する.この文章の論理構成はどうなっているか,単語ひとつひとつを拾いあげながら,より詳細に分析するためにどのような質問をしてあげよう?と考える.そこで浮かび上がる質問に対し,その質問が浮かび上がった思考過程を無視してそれに答えるということを繰り返す.このように擬似的に2つの主体を自身で用意しその間の通信を言語により行うことで、ただ思いを文章に書き起こすだけよりよほど自分を客観的に分析できると感じている.

ここで書き出す段階のところが大きなポイントである.引用記事の反論1では読み手も自分である以上自分の価値観や思考というレンズを通すことになってしまうとあるが,それはあくまで「書いていないことを筆者が自分であることにより埋めることができてしまうから」なのではないか.例えば毎朝テレビで見るニュースは主観的か?と言われると,これはおおよそ主観の入っていないものと言っていいであろう(というかそうであってほしい).そこで話されていない情報に関しては追加情報なしに知りうることはできない.この点は,「客観」という概念に要請される必要条件といっていいのではないだろうか.ただ,やはり必要条件でしかなく十分条件ではないのでこの手法により完全な客観視が可能かというと疑問が残るのは否めない.

反論2に関しても個人の中で形成される言語運用がその人の経験や成り立ちに強く依存するためその過程には主観的要素が含まれるという点は間違いないと思うが,ラングが主観的要素を含まないと考えるのと同じ理由でその人の中に存在するあらゆる言語的知識・経験そのものは主観的なものではないと考える.あくまで自分の捉え方としては,その人の中で思考を表現する際に言語を使用する際に発せられた言葉に主観が乗るというイメージである.

主観とは何かという問題

以上では引用記事における2つの反論に対してあまり共感できなかったという内容を述べたが,それをまとめる過程で「主観・客観とは何か」が分からないということに気が付いた.引用元も全く同じように書いていて,自分がこれらの反論に賛成できなかったのは主観というものに対する定義の違いによるものが大きいと思う.とはいっても自分も明確に主観の定義を述べることは現時点でできないのだが.

これはこのテーマを考えるうえで避けては通れない問題ではあるが,主観というものが主体の意識から生じるものというのはなんとなく同意がとれるであろう.ところで「意識というものが存在するのか」という問題はデカルトの"Je pense, donc je suis (我思う,故に我あり)"から現在まで解決されていないことからわかるように長らく哲学においての難問,まさにハードプロブレムであり続けている.

そもそも世の中はもれなく全て物質からできているので,すべてが物理法則に従って決まっているはずであるなんて考えも完全に否定することは現時点でできないであろう.実際リベットの実験のように自由意志の存在を一部否定しうる実験結果も出ている.主観が何か以前に,そもそも主観なんてものは存在するのかということもかなり怪しいのだ.もし主観が存在しないと仮定したとき,我々が「主観的」「客観的」と捉えている概念の正体は一体何なのか.そこまで考えると壮大ではあるが非常に興味深い.

逆に言えばこの問題について大きな進展があればそれは言語学においても多大な影響を与えるのではないか,そしてこの記事で扱ってきた自己分析のような身近な問題についても何か知恵を与えてくれるのではないかと思う.まとまりがない気もするがこの辺で終わろうと思う.何か新たに考えることがあればまた加筆する.

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