闘う疲れと、何もしないで感じる無力感、どちらを選ぶか
最近福祉のある支援を受けようとしていた。
何度か窓口に訪問したり、電話で話したり、登録したり、
色んな過程を経て、いざって時になって
横やりのようにそこのセンター長が出てきて
「〇〇〇なので、支援できません」と言われた。
でも、この〇〇〇の部分については最初の段階で
担当者に話していたので、こちらが新しい情報を後出ししたというわけではない。
その上で「支援できます」と言い続けておいて、
最後の最後でセンター長の「ノー」が出た。
どういうこと?!
って感じだけど、担当者の人は「私の落ち度です、すみません」
としか言わない。
多分センター長に忖度してるんだろうなという感じで、
これまでOKと言ってたのが何で覆ったか納得のいく理由は聞けてない。
「〇○○だからダメ」というのは、規則ではないって言ってたから、
センター長のこだわりなのかなって印象。
でも、それを外部の私にそうは言えないから
「私の落ち度で・・・もごもご」
って感じの対応。
ここまでかかった手間と時間と、あと期待もしてきたわけで。
それを考えるとこのまま諦めるのはイヤだった。
なので、もう一度担当者に電話をして
「これまで支援できると言ってたのに、急にダメと言われても納得できない」
「~の理由で実際困っていて支援が必要なので、もう一度検討してほしい」
ということを伝えた。
色々すったもんだの末に検討しますとなったんだけど、
その後電話が来てさらにややこしい事態に。
その時の電話の感じもこれまで柔らかい対応だったものが、
つんけんした感じに。
私が悪いんかい!?
悪いのそっちですけど!?
って思うけど、でもそういう対応を受けると精神が消耗する。
自分がわがまま言っているような気持ちにさせられる。
それじゃ、相手の思うつぼか。
私の人生は基本飲み込んで、受け入れて、我慢する、そんな感じだった。
だから、今は言うべき時は言うように努力している。
その結果、良かったこともたくさんある。
ちゃんと要望が通って助かったこともたくさんある。
あー、人生は我慢している者が損をするのねと思うことも多い。
何もしなければ
「あー自分は何もできないんだ。
言われたい放題、相手のしたい放題だな」
という無力感が植えつけられる。
だけど一方で、今回みたいにこじれた時に思うのは、
意見を対立させる・自分が正当であれ揉める、
というのは消耗戦だってこと。
疲れる。
種類は違うけど、どちらを選んでもダメージを負うのよね。
どちらの方が人生においていいんだろう。
どちらの方がより意味のある痛みなんだろう。
みんなはどうやって折り合いをつけたり、一部諦めたりしているんだろう。
「自分の意見を主張する」という経験が圧倒的に足りないから、
こういうことに一々悩み疲れ切る。
だけど、じゃあ前みたいに毎回自分の意見を取り下げて何も言わず、
事なかれ主義で生きていきたいかというと決してそうじゃない。
それはそれで、自分の自尊心を傷つける行動だったと思うから。
自分を大切にする生き方の一つとして、主張することは必要だと思っている。
だから、今の痛みや疲れも必要な経験の一つなんだね。
周囲に相談したり、話を聞いてもらったりしつつ、上手に空気を抜いて、
適度に悩もう。
深刻になりすぎると疲れ果てるから。