やっぱり分かり合いたいんだ |『我々はどのような生き物なのか ーソフィア・レクチャーズ ノーム・チョムスキー』 福井直樹・辻子美保子
『無色の緑色の考えが猛烈に眠る』
チョムスキーとの出会いは「人間ってナンだ? 〜超AI入門〜」という、人工知能が理解する会話のセンテンスについて解説していたテレビ番組からふと聞こえてきた、違和感たっぷりのこの一文からでした。
この言葉は、哲学者、言語学者、認知科学者、論理学者など様々な肩書を持つチョムスキーが、文法的には正しいけれども意味をなしていない文の例えとして、文法の構造を説明する際に用いた
Colorless green ideas sleep furiously.
それの直訳です。
チョムスキーは言葉を、脳や心の構造面から科学的見地を元に解き明かそうと試みています。
正直なところ、チョムスキーのこと、言い換えれば言語研究のことについて調べれば調べるほど、なんだかどんどんわけが分からなくなってきます。
ただ、違和感って、何かしらに反応した心が送ってくるアラームのようなものだと思っているので、最初に感じたこの違和感の正体がなんなのか、やたら気になってしまうのです。
そんな中、手に取ったひとつがこの本です。
チョムスキー曰く、会話というのは共感能力が必要で、意味の分からない文章だと文法的に正しくても共感のしようがないから会話が成立しない、とのこと。
吉本隆明さんに引き続き、またしても「言葉の意味」とやらに直面です。
そもそも、共感ってなんなんでしょう。
さっきテレビのニュース番組を見ていたら謝罪の言葉を述べている人がいて、その人が発する言葉は文法的な意味としては理解できるものでしたが、「誰に対して、何を謝ってんだろう?」と、まったくもって共感できるものではありませんでした。
しばしば、文法は正しくなくても「なんか分かる」みたいな、論理的なものを超えて共感することってありませんか?
どうやら、理解することと共感することは、同じではないみたいです。
うーん、やばい。
迂闊にも、とてつもなく深い沼に足を突っ込んでしまったみたいです…(涙)
もう、チョムスキーのことはお手上げだ、この投稿はお蔵入りだ。
そう思ってパソコンを閉じ、ご飯を炊いたり、洗濯物を畳んだりしながら、読み散らかしていた本を片付けようと本棚を整理していたとき、2009年秋号の『考える人』が目にとまり、何気なく手に取ったのです。
そして『活字から、ウェブへの••••••』という特集のその号をペラペラめくっていたところ、言語学・文化人類学者の西江雅之さんのことばをめぐる話『意味を伝えるもの』という連載記事を発見。
そこには「ノンバーバル・コミュニケーション」、いわゆる「人間は "ことば” だけで伝え合っている」とする説を否定することから始まった非言語コミュニケーションについて書かれていたのです。
西江さんは『現実の伝え合いは、 "ことば” と、"ことば以外の要素” が溶け合ってなされている複雑なものであり、一要素だけを捉えてその全体を語ることはできない』と述べられており、また、言語研究と同様に『一部の要素のみ ーたとえば、顔の表情や身振りなどー を自立したものとして研究し、かつ、その一要素をもって伝え合いの全体を語ったこと』に、ノンバーバル・コミュニケーション研究においても問題がある、と記されています。
私の違和感は、まさにそこにあったのです。
なんだか、あきらめようとしていた「言葉の意味」の謎を解くことに、「えー、あきらめんの? はじまったところでしょ」と言われたような気がしました。
まぁ、誰に言われたのかはわからないのですが。
ということで、「言葉の意味」の謎を解く旅を続けることとなり。
だって、見つけちゃったんだもんなぁ、ヒントを。
福井直樹・辻子美保子(翻訳者)
『我々はどのような生き物なのか ーソフィア・レクチャーズ ノーム・チョムスキー』 (2015)岩波書店
『考える人』(2009)新潮社
西江雅之『マチョ・イネの文化人類学③』