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弱さを認められる人は強い

完璧な人はいない。
人間には、弱さが備わっている。

確か仏陀も、人間は自分のことが一番好きだと認められる人の方が正直者だと仰っていたと思う。

もっと知りたいと思うことも、
もっと良い人間になりたいと思うことも、
全部欲望だ。
(良い悪いではなく)

どんなに取り繕ったって、
痛いのも、辛いのも、怖いのも、
人間は嫌いだ。

確か仏陀も殴られたら、
痛いは痛いけれど、
「そこに痛みがある」と観察する
というようなことを仰っていたと本で読んだ気がする。

それを我慢できるとか、
仏陀のように上手に悟れるかは別として、
不快であることは間違いない。

肉体を持っている以上は。

自分の弱さを認められる人というのは、
実はとても、勇気のある強い人なのではないかと思った。

弱さを認めるというのは、
愚痴を吐くとか、弱音を吐くっていうことじゃなくて、

「自分は弱い人間である」と、
分相応を知っているということだ。

自分に出来ないことを、
素直に人助けを求められる人や、

本当に休みたいときには休めること、

出来ないことを、
周りから非難されても、
ちゃんと出来ないと言えるということは、

勇気のいることだ。

自分の弱さ、小ささを認められる人は、
他人の弱さや小ささも認められる。

自分の考えだけが正しい訳ではないということも、
受け入れられるだろう。

最近、オポノポノの言葉を心の中で唱えている。

ありがとう
ごめんなさい
愛しています
許してください

誰か特定の人に向かって言うのではなく、
何か恐れや、怒りや、悲しみが沸いたときに、

自分の中いるもう1人の自分に向かって唱えている。

恐れや怒りや悲しみは、
出来事をそういう風に感じてしまう概念を私が持っているということ。

私の中にあるフィルターが、
出来事に接したときに、、
「恐れ」「怒り」「悲しみ」を映し出す
ということだ。

それは、私が育った環境や過程かもしれないし、
人類が持っている無意識の共通の概念かもしれない。

何かがあるから、
そのような感情が現れる。

もちろん、それらの感情は悪じゃない。

私は、そんな自分を癒すために、
オポノポノの言葉を、
自分に向かって唱えている。

そうすると、
「怖い」とか「悲しい」と思いも、
じんわりと、クリーニングされて、
少しだけ気持ちが軽くなる。

それは、ほんの小さな変化かもしれない。

玉ねぎの薄皮を剥いでゆくようなもので、
新しい概念もいっぱいできていくから、
いたちごっこかもしれない。

でも、そうやって、
毎日の中で、何回も何回もやってくる
恐怖や悲しみを地道にクリーニングしている。

姿勢を良くすることや、
下っ腹(丹田)の辺りに力込めることも、
恐怖や悲しみを和らげてくれる気がする。

心と身体は繋がっている。



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