
『Echoes of Life』 羽生結弦 命の哲学 に思うこと
人類はやり直せるか。
大地は芽吹く。
太古の昔、地球上から生命が途絶えたように見えた脅威の後に再生し進化してきたように。
繰り返す過ちは犯さないか。
例えば今地球が滅亡するとすれば核の脅威、温暖化による気候変動の脅威、映画に描かれた世界のように。
壊滅した世界を羽生結弦が描いた。でもどんな未来が来ようと生き残る人類はきっといる。Novaが生きたように。
人は生きなければならないように生まれてくる。産声への祝福は命への期待。生まれて人は生きるという使命を背負うのだ。
生まれてこなければよかったと思う意味もいらない。その日誕生の歓喜が響いたのだから。
どう生きるか果てしない旅が始まるのだ。
たいそうなことを考えていたら、ネットニュースが伝えてきた。普通に生きていただけなのに若い命が消えた理不尽に憤る日曜日の朝だ。
生きたい生きたい生きたい、生きる意味は生きたい気持ちで生きること、それでいいのではないかと思った。生きたかっただろうにと思った。
同時に死ねばいいと思った。生きる意味など与えられてはいけないのだとその輩に命の意味を突き付けてやりたいと思った。
『Echoes of Life』主人公の「わたし」。遺伝子操作された人間VGHはガンダムの闘争を起こした元凶と重なった。感情をコントロールされようとサイボーグではない。人間とて戦闘の状況下に置かれ洗脳されれば殺戮兵器になることを厭わない。過去の戦火における事実がある。でもどちらの人間を生きようが愛の感情を消去することは絶対できなくて、愛があるがゆえに苦しいと思うのだ。
生きる意味を見つけた「わたし」の後日譚が幸せであって欲しいと思った。同じようにどこかで生きているかもしれない「あなた」と巡り合うストーリーを私は望む。
違う世界線で生きてる「あなた」が時空という空間に飛び立って、果てしない確率にはなるだろうけれど、手を伸ばせば掴めるほどの距離まで近づけるかもしれない。けして交わらない平行線の世界で「わたし」を探し続けてる「あなた」がいたって不思議じゃない。いなくなってしまったその世界の「わたし」を、「あなた」は探している。
命果てるまで「わたし」一人で生きることは可能かもしれないけれど、再生した世界を繋げるためには愛する「あなた」が必要不可欠なのだ。自分が生まれた証明を見ることは不可能でも、新たな命の誕生の証人にはなれる。
「わたし」が生きる後日譚に一人の人としての幸せが語られることを祈りたい。
天には星
大地には花
人には愛
(ゲーテ)
「わたし」は愛されていた。「愛してる VGH-127」愛された記憶で生きていける。無償の愛を識る。愛された記憶で人は優しくなれる。強くなれる。愛することができる。
羽生結弦にとって大切な要素にゲームから学んだものがある。セトリが公開されて使用曲を知るが、識るレベルへ到達するには時間が足りないものがある。公開されている動画を見るには時間が無い。ゲームに展開される物語を私は識らない。羽生を追いかけてはいるが、全てを追いかけきれないものがあることを識っている。
ならば自分の識っているものに落とし込んで『Echoes of Life』を語ってみよう。
もしも滅びゆく世界が見えた時、未来に生き残るべき人物として羽生結弦を必ず逃したい。来来を託したい。
カプセルの中深い眠りから目覚めた彼は使命のように、氷など張れないその未来で愛を舞う。祈りを舞う。希望を舞う。
氷の上とは思えない技術のさらなる進化を見た。もはやフィギュアスケート界だけに留まる羽生結弦じゃない。この人はどこで舞おうが羽生結弦なのだ。どの世界線上で生きていても羽生結弦なのだ。心を鷲掴みにされ悲鳴を上げたいような衝動、はらはらと流れる涙を拭いたくないほどに、感じるままに羽生を見つめていた。
『Echoes of Life』はひとまず埼玉スパーアリーナの三日間の幕を閉じた。幸福感と活力と少しの寂しを抱えて私は日常に戻っている。
最終日のMCの終わり近く、「長生きしてくださいね」とあどけない声で羽生が言った。会場がざわざわとした。子どもや孫に言われたことがあるだろうこの言葉を羽生に言われた。それなりの年齢の者は自分への言葉のように捉えて苦笑した。
生きることが終るまでのリミットが其々違う中で、羽生はたぶん其々の立場の場所で精一杯に大事に今を生きてくれと、理不尽な運命に巻き込まれることない命であって欲しいと祈るような言葉だったのだと思っている。
「生きてください」と羽生が伝え始めたのはいつからだったろうか。『nottesuterllata』だったろうか。「死にたい」と思った過去を彼の口から漏れ出たこともあった。私でさえ死にたいと思った記憶があるのだから、人は一度や二度落ちるところまで落ち込むことがあるものだと思う。
傷つけられて傷ついて、傷ついた場所を訪れ、傷ついた人を訪ねた羽生。生きることはどこかで辛さを伴うけれど、がんばれと言われることのしんどさを承知の上だけれど、あえて「がんばってください」とも言った。
「わたしが応援をしているから。わたしが命の希望を届けるスケートを贈るから。わたしが勝ってきたのはすべて今のためだから。わたしが…わたしが…わたしが…」
羽生本人と、Novaのわたしとが私のなかで交錯する。
「わたし」の問いは羽生の問い、「わたし」の答えは羽生の答え、羽生結弦の哲学。
羽生の物語にはいつも再生がある。救われる。
植物が芽生える。自然の植物は強い。生存戦略は人間よりも優れているという。自分を犠牲にしても次の世代へ繋げようとする。美しい姿で虫や鳥を惹きつけようとする。

生きるとは考えること、考えるとは自分をみつめること、見つめる自分は今呼吸をしていること、呼吸が止まれば死ぬということ、生きるとはいつか死ぬこと、いつか死ぬまで生きること。生きたかった命があったことを胸に留めおくこと。
平等に与えられた運命が死だとしたら、決して変えることのできないのが運命なのだ。
運命をとびっきりの笑顔で迎えられるように、いまここにいることを一生懸命頑張ることだと「わたし」が言う。奇跡が生まれるのはそんな一生懸命な日常の中にあるのだろう。悔いのないという意味でいいのだろう。
羽生がいつ死んでも悔いのないつもりで滑っていると、そういう演技を置いていく(意訳)と言った言葉を思い出す。
だからミスしたジャンプをあれほど悔しがる。限界を超えそうな体力の中で失敗もあって当然さと観てる側は思うのに。生きる意味に繋がるスケートだから、スケートで培った美しくて頑固な哲学が基盤にきっとあるのだ。
(ひとり言)
敬称略ご容赦ください。
羽生結弦のせいで(おかげで)哲学の本が増えている。
「御クーポンお持ちですか」文字にすればたぶんこうだ。羽生くんは「おくーぽん」に笑っただろうか。私は笑った。イヤホンで聴いていたから見られていたら可笑しなやつに映ったに違いない。
『水中の哲学者たち』を読んだ。読んだというよりオーディブルで聴いた。面白いのでお勧めしたいし、哲学とはかくたるものからの疑問でよいのかと識る。小学生の道徳の時間はもしかしたら哲学入門だったのかもしれないと今なら思う。やたら人権を学んでいた記憶があるのだけれども。
わたしへの問いや、わたしに降りかかること、引き受けねばならぬこと、わたしがわたしであること、羽生くんが影響を受けたことがうかがい知れた。
『生誕の災厄』も読み進めているが私には難解。語句を辞書引きしたら進まない。でも影響を受けたのはなんとなく解かる気がした。
さて今日も『Echoes of Life』語り尽くせばきりが無く、一旦終わります。ネタバレしてもよくなったらもっと何か掘りたいです。
2025年 初春、羽生結弦の尊き命の舞が広島から世界に届きますように。
平和への祈りがどうぞ届きますように。

家の(ほぼ私ひとりの)神棚です
はてお正月どう祀ればよいものか
榊御神酒御餅
(もう一つの正源の娘のひとり言)
投稿しようとしたら「今年学んだこと」というnoteのお題があったことに気付きました。相変わらずの羽生結弦と共にあった1年でしたが、新たな学びとしてぜひ「哲学」を上げたいと思います。
羽生ファンの皆様はきっと同じ学びをされたことだろうと思います。
私の本棚に並びました。
『一度読んだら絶対に忘れない哲学の教科書 ネオ高等遊民著』
『自分とかないから(教養としての東洋哲学) しんめいP著』
『生誕の災厄 E・M・シオラン著』
『水中の哲学者たち 永井玲衣著』
『Echoes of Life 羽生結弦著』(私の中ではもはや哲学書です)
番外編
『いつ世界が終わっても(羽生結弦×糸井重里)対談』
哲学など複雑難解で遠いものだと思っていました。
京都の哲学の道を若かりし頃歩いていても、ふむふむ哲学とは何ぞやと軽ーく流しておりました。おもしろいと思える学問ではないと思っていました。今年食わず嫌いだったことを識りました。
全ては羽生結弦ありきの出来事でした。学びのきっかけをくれる存在です。この年にしてまだまだ新たなことを識る。
それが今年は哲学でした。
