【グレートギャツビー】が「グレート」な理由とは
フィッツジェラルドの名作
村上春樹訳で2回読み、映画はレオナルド・ディカプリオのものを見た。
今回読んだのは小川高義訳のもの。
村上春樹訳より少し文章が堅めではあるが、つっかからずに読めた。表現が文学的で、その分村上訳よりも登場人物が大人っぽく感じて良かったように思う。
村上春樹の方はそこはかとない全体の虚無感や、物憂いモラトリアムな雰囲気は出ているかもしれない。
ストーリーはもちろんとても面白いのだけれど、学生の頃から何度か読み返してみて、面白さの種類が読む度に違う。
人間の品性って何だろう?
裕福な人に品性があるというのはイメージだけの問題で、実際には超富裕層にも下劣な人は多い。
この本ではトム・ブキャナンという鉄道王の御曹司でポロの名選手。恵まれた体格を持つ強気な男。皆を虜にしてやまない女性(デイジー)を妻にしていながら、労働者階級の人妻と不倫をしたり、あげくの果てには女を殴ったりもする。はち切れんばかりの体躯に収まった脳も筋肉というタイプだ。
対してギャツビーは一代で財を成した超成金男。ピンクのスーツなんか着てたりで、非常に胡散臭い男なんである。「友よ(Old sport)」なんて話しかけてきて、違和感のある丁寧な言葉遣いをする。服装もビチビチに決めていたりするのがかえって嘘くさい。
ただし彼の笑顔には嘘がなかった。「そのどこまでも安心させる表情は一生に四回、五回あるか」と思わせてくれる笑顔。純粋さが持って生まれた魅力として語られる。ギャツビーは、5年前に恋に落ちた人妻デイジーを取戻すことで完璧に自分の人生をコントロールできると信じる。
で、デイジーなんだが…美しく可憐、男を夢見心地にする声、生粋の上流階級の妖精のような存在なんである。
あまり頭は良くなさそうだが、その「実は空っぽ」な感じも男心を誘うようだ。
「女は綺麗で馬鹿であることが幸せ」だという価値観を自身でも持っている。
と、ここで現代の価値観と照らし合わせてみて、果たしてギャツビーが苦労して手に入れるに価する女なのか?というところ。私は何度読んでも変わらず感じる疑問だ。当時(今から100年ほど前)は階級社会があって、成金が箔をつけるために上流階級の女性を手に入れることは憧れだったのだろうけれど、他にも誰かいただろうになぜ?愚かだなぁー…(ため息)という感じ。
その愚かさが「グレート」なのだと気づいたのは今回初めてだった。だって「華麗なる」って訳されることもあるし、ギャツビーの築き上げた財力や豪邸は確かに「華麗」だと思っていたから。
ギャツビーの「グレート」なところは、一人の女性を思う愚かなまでの純粋さ、そして過去もなかったことにできるはずという傲慢なまでの思い込み、夢を実現するための努力だったのだなと思った。
で、品性に戻る。
上流階級に位置するトムやデイジーに品があるのかというと全くない。神の目はごまかせない。「あいつら腐りきってる!」と語り手ニックもギャツビーに叫ぶ。「あんた一人でも、あいつら全部全部ひっくるめたのといい勝負だ」
最後にフィッツジェラルドについて。
ふとした細部の描写がいきいきと美しく、絵画や映画のように立体的に目に浮かぶ。
私が好きなのはギャツビーが色とりどりのシャツをばら撒くシーン。ギャツビーの最後のプールでの表現だ。
また、語り手の設定が素晴らしい。事象をニュートラルに温かみを持って見るニックに最後まで心救われた。