お茶会で見る掛け軸
みなさんは、お茶会に参加されたことはありますか?
わたしも何度か同行させてもらったことがあるんですが、わたしの場合、お茶よりも掛け軸にある禅語に目が奪われてしまいます。
悲しいかな、本好きの成れの果てです。
あまりにはまりすぎて、禅語の本を買っちゃうくらいです。というわけで、今回は、わたしの好きな禅語を3選あげていこうかと思います。
①喫茶去
原典は「趙州録」という中国の仏教書です。
いろいろな行脚の僧が、中国の高僧・趙州を訪ねるのですが、すべての人に「喫茶去」というのです。
さあ、お茶をどうぞ、と一般的には訳します。
この言葉には分けへだてをなくし、自分の都合や感情を取っぱらって無心にお茶を点てよという意味です。
これとは、また違った訳文もあります。
「向こうの茶堂に行って茶でも飲んでこい」というものです。
どちらもねぎらいの言葉にも聞こえますが、後者の場合は、禅の世界ではそうとらえません。
「真理がどうのこうの、つべこべ言わずここから出ていけ!」という意味になるのだそうです。
これとは別に「且坐喫茶」という禅語があり、こちらは、つべこべ言わずお茶を飲みなさい、という意味になります。
おそらくはこの2つの語が混同したのではないかと言われています。どちらの説が正しいかはわかりませんが、どちらにも共通しているのは、物事は理屈じゃないということです。
ぐたぐた言わず黙ってお茶を飲めってことですね。
②非思量
原典は、道元禅師の著書「正法眼蔵第十二坐禅箴」及び「普勧坐禅儀」です。
直訳すれば、考えるのをやめるとなるので、西洋哲学におけるエポケー(判断停止)に近いかもしれませんが、微妙に意味がずれてきます。
原文から読み解くと、考えること以外の手段で真理を追求するということになります。人間の思考を超越したところに座禅の境地があるのかもしれません。
修行僧のお姿を遠くから眺める感覚です。
③一期一会
有名な言葉ですね。もともとは千利休の言葉なのですが、この言葉を広めたのはなんと幕末の政治家、井伊直弼なのだそうです。脱藩した元水戸藩士に暗殺されたことで有名で、恐怖政治をおこなったことからその後政権を握った尊攘派の志士から蛇蝎のごとく嫌われた人です。
ですが、この井伊直弼という人はものすごい教養人でお茶にも精通していました。「茶湯一会集」という著書を残し、その著書の中にこの言葉が、見受けられます。
およそ武士と呼ばれる人たちは、常在戦場(常に戦場にいる)の気持ちで生きていたといいますので、いつなんどき敵に襲われても覚悟ができていたといいます。
彼自身、幕末の混乱期に大老という重職にあったわけですから、反対派から恨みを買う覚悟があったのかもしれません。そう考えれば、この一期一会という言葉、とてつもなく深い意味を持ち合わせてきますよね。
死を覚悟した人たちが、命のあるこの瞬間に点てるお茶なんです。
自己紹介のモットーなんかで軽々しく使えるような言葉じゃないんですよね。実は。
最後になりますが、禅語って奥が深いですよね。わたし大好きです。心の重荷がすっと落ちていく感じです。もしご興味のある方は関連書籍を紐解いてみてはいかがでしょうか。