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しかし君、恋は罪悪ですよ〜夏目漱石「こゝろ」を読む
「しかし君、恋は罪悪ですよ。解ってますか」
この言葉が脳裏をグルグルと経巡り、数十年もの間、私の思索を蝕んできたのです。
1.「こゝろ」を再読したきっかけ
この言葉は、夏目漱石著「こゝろ」に出てくる言葉です。
この作品は非常に難しい構成になっています。夏目漱石といえば、国語の教科書に必ずと言っていいほど、その作品が掲載されますが、この作品は彼の作品の中でもすこぶる難しいものとなっています。
まず、この作品は三部構成になっています。上が先生と私、中が両親と私、下が先生と遺書です。ちなみに上と中における私は、主人公である若い学生のことで、下における私は、若い時分の先生のことです。まずこの違いを知る必要があります。
「こゝろ」を初めて読んだのは20歳ごろだったと思いますが、とあるnoteの記事がきっかけになり、再読することになりました。その記事がこちら↓↓↓
ここのコメント欄にも書きましたが、物語の最後になぜ、先生が自◯したのか、そこがわからないとのことでした。
この作品におきまして「明治の精神に殉死するつもりだ」との言葉を残し、ラストシーンを迎えるわけです。
ですから、私の回答として、そのまま「明治の精神に殉死」したのだと解釈すべき旨を述べました。
下、先生と遺書を読んで見ますと、親友のKと「お嬢さん」(上・中の妻に当たる女性)を同時に片思いする関係になるわけです。
その後、親友Kを出し抜こうと、「お嬢さん」の母親である奥さん(下宿先の未亡人)に結婚の申入れをし、見事承諾されます。されたのはいいのですが、事情を知らない奥さんは、同宿の親友Kにこの事実を伝え「おめでとうございます」との言葉をもらいます。その2日後、彼は簡単な遺書を残し、自ら命を絶ったのです。
直接的には、恋敵に敗れた末の結果なのかもしれませんが、ここには複雑な事情が絡んできます。
まず、親友であるKの人柄について。真宗のお寺さんの息子として生を受けるのですが、長兄が跡を継ぐために自身は医者の養子に入ります。
医学の勉強をするために東京に出てくるのですが、実父の遺伝からか、哲学や宗教にハマり、養家から仕送りを一切ストップされるのです。
仏教精神を根本に持つKは、元来、禁欲主義的な生活をしていて、なおかつ仕送りもなくなり、貧窮生活の淵におりましたので、その窮状を見かねて先生が助け舟を出すわけです。
K自身は、自分の道を忠実に歩もうとするのですが、経済的に破綻し、彼の目指す「精神の向上」にも行き詰まってくるわけです。
つまりは、恋愛上の悩み+哲学上の悩みがリンクした上での出来事なわけです。
問題は、その後の先生ですね。当然ながら、自分が親友を自◯させたのではないかという罪悪感に苛まれ、大学卒業後も、親からの遺産をもとに世捨て人のような生活に甘んじるわけです。
このことから、ノイローゼ原因説が登場しますが、それではあまりにも現代的すぎるのです。断じて言いますが、先生はノイローゼなどではありません。明確な判断力のもとに殉死するのです。
2.明治の精神に殉死するとは?
では「明治の精神に殉死する」とは何でしょうか。
この一文には二つのキーワードが含まれています。
まず一つは、「明治の精神」そして二つ目が「殉死」です。
まず、「殉死」について。
殉死とは、主君が死亡した際に、その忠義心を示すために、自ら命を絶つ行為を指します。
戦国の世が終わり、戦死する機会を失った武士たちがおこなった、主君に対するアピールです。
現代で言うなら、社長が病死した際に社員が後追い自◯するということです。現代人の感覚からすれば、まったく理解できませんね。しかしそれこそが、武士道というものです。
では、誰に対して「殉死」するのか。
そう、「明治の精神」に対してです。
作品中にも登場しますが、この作品は、陸軍の乃木希典大将が明治天皇崩御の際に殉死した事件をモデルとしております。
ここで注意すべきは、先生は、明治天皇に対して忠義心を示しているわけではないということです。それでは乃木大将の二番煎じにすぎません。
そうではなくて、「明治の精神」に殉ずるわけです。
簡単に言いますと、江戸時代に形成された封建道徳を残存させながら、同時並行的に西洋から個人主義思想を輸入し、その定着に知識人たちが翻弄するわけです。それが、「明治の精神」なのです。
明治が終わり、個人主義と政党政治の時代がやってきます。それが新しい精神なのです。もちろん、伝統的な封建道徳も残存することにはなりますが。それが、近代日本人が抱え込んできた葛藤の正体です。
3.先生が抱え込んできた罪悪感
この作品には、一貫して虚無感が流れています。あまりにもわびしすぎるのです。先生の抱え込んできた孤独感はどこから来るのでしょうか。
下の先生と遺書にも書かれていますが、おそらくは、親友Kの自◯を阻止することができなかった無念でしょう。
恋敵を奪ってしまった罪悪感。しかし、もともと親友Kはテツガクの道に挫折していました。その彼を助けんとして、下宿先の未亡人に同宿を願い出るわけです。
親友を失った悲しみはもちろんですが、そこには、ブンガクやテツガクを志向してきた学生の葛藤があります。
若い方の私と妻の会話にこのようなものがあります。
あなたは学問をする方だけあって、なかなかお上手ね。空っぽな理屈を使いこなす事が。
そう、「空っぽな理屈」なんですね。フツーの人からすれば。リアルな世界のみに生きる人々にとって、ブンガクだのテツガクだのとやらは、「空っぽな理屈」にすぎないんです。
その「空っぽの理屈」のために親友Kは自◯したんです。さながら、明治36年に日光・華厳滝にて投身自◯した藤村操を彷彿とさせます。
若き日の先生には、幾分かのリアリズムがあったようにも見受けられますが、親友Kを失ったあと、人格がガラリとかわり、世捨て人のような生活を送ることになるのです。
Kと私(若き日の先生)との会話に「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」とありますが、一周回ってみれば、「精神的な向上心を求めるものは、馬鹿だ」とも聴こえます。漱石自身の自嘲なのかもしれません。
先生が持つ孤独感は、哲学や文学を追求した人間じゃないと決して理解できないでしょう。
4.先生と妻(お嬢さん)との関係
この作品を難しくしている原因の一つとして、二人の関係性にもあるような気がします。若い方の私が、妻(ちなみに名前は静です。乃木夫人と同じ名です)に二人の関係性を問いかけます。
どうも二人の関係はまどろっこしいんです。
ただこんなやり取りもあります
「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方を向いていった。(中略)「子供はいつまで経ったってできっこないよ」と先生がいった。(中略)「天罰だからさ」といって高く笑った。
今風に解釈すれば、冷めきった夫婦に見えます。おそらくは結婚して以降、二人はカラダの関係を持っていないものと想像できます。しかし、二人は仲良しなのです。そう、二人は|観念的愛《プラトニックラブ》の関係にあるからです。
私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛をもっていたのです。(中略)もし愛という不可思議なものに両端があって、その高い端には神聖な感じが働いて、低い端には性欲が動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を捕まえたものです。(中略)けれどもお嬢さんを見る私の眼や、お嬢さんを考える私の心は、全く肉の臭いを帯びていませんでした。
現代の恋愛小説では、やたらとベッドシーンばかりに重きを置き、「肉の臭い」がプンプンとただよってきますが、明治時代の恋愛がいかに高尚かつ清廉たるや。美しくも気高い愛です。令和の現代においてもぜひ見習いたいものですね。
5.乃木事件を受けて
本作品のモデルとなったいわゆる乃木事件ですが、森鷗外もまた、「興津弥五右衛門の遺書」「阿部一族」といった作品を発表し、殉死を日本人の伝統的思想として賛美します。
一方で、否定的な観点を持つ作家もいます。
『馬鹿な奴だ』といふ気が、丁度下女かなにかゞ無考へに何かした時感ずる心持と同じやうな感じ方で感じられた
無論俗人じゃなかったでしょう。至誠の人だった事も想像出来ます。ただその至誠が僕等には、どうもはっきりのみこめないのです。僕等より後のちの人間には、なおさら通じるとは思われません。……
志賀や芥川は、大正文学を代表する存在ですから、さしずめ「大正の精神」を奉じる立場なのかもしれません。
ここに近代日本人の葛藤(伝統か革新か)が見受けられます。しかし、どちらも日本人の姿なのです。
6.さいごに
今回は4,000字を超える長文となりました。
しかし、「こゝろ」という作品は非常に奥の深いものです。ほんの少ししか解説できませんでしたが、SNSの性質上あまり長くなることを遠慮しなければなりませんので、この辺で締めくくりたいと思います。
気鋭のnoterさんである五月美さんが、この作品の意図がわからないとつぶやくのも無理のないことです。ネット上で「こゝろ」を検索しても、さっぱり理解できないとの感想が多数見受けられます。
何度でも繰り返し主張しますが、古典を読解する際は、決して現代的観点から分析してはいけないということです。時代背景など考慮する必要もありません。
なぜなら、その作品が公表された当時はまだ歴史的存在ではないからです。その時のリアルが描かれているわけです。ですから、そのリアル、彼らの息遣いをそのまま味わってください。それこそが古典の味わい方なのです。
降る雪や 明治は遠くなりにけり 中村草田男
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