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最近読んだ本:世界中の翻訳者に愛される場所
白地の表紙には『世界中の翻訳者に愛される場所』というタイトルと、手書きのように見える黒くて細い線で描かれた建物のような形と、片隅に踊る淡い浅葱色のアルファベットだけ。翻訳者に愛される場所、書店かな、土地かな、どんな場所なんだろう。ぱらりと開いてみると、そこには空想の世界にしか存在しないと思っていた「翻訳者の家」がありました。
ドイツ西部の花の町シュトラーレンにあるヨーロッパ翻訳者コレギウム。年間数百人の翻訳者を受けいれ、仕事部屋や奨学金を提供している施設だそうです。滞在資格は「すでに二冊以上の翻訳出版の経験があること。そして、現在翻訳中の本があり、出版できる見通しがあること(出版社との契約書もしくは覚え書きを示す必要がある)」(本書40頁より)。携わっている翻訳言語にドイツ語が含まれている必要はなく、世界各国の翻訳者が訪れていて、常時20人ほどが滞在し、翻訳に取り組んでいるといいます。3つの一般家屋をぶち抜いて作られた翻訳者の家は学生寮のようなところで、充実した蔵書がそろい(公式サイトによるとその数12万5,000冊)、自由に使えるキッチンがあり、掃除やシーツなどの洗濯を担当してくれる職員さんもいるとのこと。「日常の雑事から離れ、ほんとうに集中して翻訳できる」(58頁)、静謐な環境。……いいなあ。いいなあ……!! 1日を自分の好きなように使い、休憩時間が重なったらほかの翻訳者と言葉を交わして、時には議論し、「自分が翻訳している文学作品の難解な箇所について質問」(同)することもできるし、穏やかな自然に囲まれてサイクリングも楽しめる。翻訳のすきまに雑事を押し込むというより、雑事のすきまに翻訳を押し込んで生活をしているようなときさえある私からすると、まさに桃源郷。翻訳者にこんなに豊かな仕事環境を提供してくれるところが実在するのだと、しばし呆然としてしまいました。
出版翻訳に手が届いていない私にはまず滞在資格がないのですが、シュトラーレン(「翻訳の家」は地元の人々からこの町の名で呼ばれているそう)は一般市民にも広く門戸を開いていて、一般公開日(44頁)があり、翻訳者を目指す人のためのセミナー合宿(18頁)も行っているそうなので、いつか一度は行ってみたい場所のひとつになりました。
シュトラーレンの財源は、州や市からの公的な助成金でまかなわれているとのこと。その額、年に合計「一億三千万円弱」(43頁)。外務省などからも翻訳者への奨学金の形で助成金が出されているそうです(同)。本書によれば、文芸翻訳者はシュトラーレンに無料で滞在でき(172頁)、負担するのは「一週間に三ユーロ程度の共益費」(22頁)のみ(食材・食事は自分で用意し、個人負担)。信じられなくて公式サイトの"Financing"のページも確認すると、やはり"free of charge"(無料)と書かれていました。本書に「文芸翻訳の場合、収入は不安定」(39頁)という記述がありましたが、シュトラーレンの公式サイトにも「文芸翻訳を本業としている人の大半が経済的に苦しい状況にあることを考慮し、無料で滞在場所を提供している。施設の運営費に収益や『利用料』は充てていない」旨が記されていました。
ちょうど昨日、「ドイツで熟練労働人口が不足しつつあり、IT人材を確保するため、同政府がケニアと包括的移民協定を結んだ」というニュースをテレビ番組で見たところでした。ドイツも少子高齢化が進んでいて経済が大変そうだなと思いましたが、その一方で文化芸術を支えるシュトラーレンのような施設も同国に存在していることに、あらためて驚きを覚えました。本書で紹介されているドイツの翻訳者基金の公式サイトには、「ドイツ語における外国文学の紹介は、翻訳者たちの仕事によって支えられている。翻訳はわたしたちの地平を広げ、外国文学へのわたしたちの理解を深めるだけでなく、わたしたちの言葉と文学生活を豊かにしてくれる。翻訳文化が栄えれば栄えるほど、ドイツ語は豊潤で生き生きしたものになる」、「他の芸術同様、翻訳にも公的な助成が必要である」と書かれているとのこと(172頁)。また、同様に本書で引用されていたシュトラーレンの設立経緯の冒頭には、「翻訳は、『国際的な交流において最も重要で、最も尊敬に値する仕事』の一つ」というゲーテの言葉が記されています。このような考え方があるからこそシュトラーレンが誕生し存続しているのだと思い、文化芸術をないがしろにしない社会の伝統が持つ力強さと懐の深さを感じました。
これまたちょうど昨日、SNSで目にしたのですが、著者で翻訳家の松永美穂さんによる本書のトークイベントが東京で開催されるそうです。
翻訳とは、そうした読書のなかで最も「遅い読書」であり、「クリエイティブな読書」だと思う。そのことをもっと多くの人に知ってもらえたら。作者と読者だけでなく、翻訳者と読者も、もっとつながっていくことができたら。翻訳者と呼ばれる人々を知る機会が増えることによって、翻訳のことをもっと身近… https://t.co/56nNUEhBg0
— 葉々社 (@youyousha_books) September 25, 2024
桃源郷のようなシュトラーレンのお話を、実際に滞在された翻訳家からうかがえるとは、なんて贅沢な機会なんだろうと思います。
この世界にシュトラーレンのような場所があることは、私にとって希望の光ともなりそうです。