【エッセイ】出会えなかった人との別れー台湾サオ族のキラシさんについて
私とキラシさんとの交流は1冊の黄色いスケッチブックからはじまり、そしてその中で終わりました。
私は学生時代、先生のところでデータ入力のアルバイトをすることになりました。
そのデータというのが一風変わった内容で、台湾の少数民族・サオ族の長老キラシさんが書いたひらがなとカタカナだったのです。
サオ族の話すサオ語は消滅の危機にある言語であり、先生はその保存活動をしているそうです。
サオ族は文字を持たないのですが、キラシさんはご高齢なので日本統治時代に日本語を覚えたということでした。
私は自分たちの文字がないのに外国の文字を覚えさせられるというのはいったいどんな気持ちだったのかな、と思ったりしましたが、ともかくキラシさんの文字を見て毎日家でコツコツとデータ起こしをしていくことになります。
私はいつの間にか、独特の丸っこい文字を見ているうちにキラシさんのことをよく知っているような気分になっていました。
毎日スケッチブックを開くと、今日は何が書いてあるのか楽しみでした。
見ているうちに少しだけサオ語を覚えました。
ヤクは「わたし」、アザザクは「子ども」、ツイニは「今」、タウンは「家」……。
キラシさんの家族についても覚えました。妻のイスツさん、たくさんの子どもたち、その孫たち。
キラシさんは一族のみんなと日月潭という湖のほとりで暮らしています。
サオ族は自然の中で生きているので、動物は自分の意志でそこにいるのではなく自然のもちものだからそこにいるという考え方をするそうです。面白いな、と思いました。
文字を見ていると、キラシさんは調子が悪い時に書いたのかなと思わせる筆圧が弱い部分もあり「びょうきに、なる」「くすりを、のむ」「あしが、いたい」という文字を見て不安な気持ちになったりしましたっけ。
あの頃のことを思うと、私は実は日々キラシさんとコミュニケーションを取っていたのではないかな、と思うのです。
もちろんキラシさんが私のことを知るはずはないのですが、それでも私はキラシさんに話しかけられているような気分になっていました。
湖の日月潭はサオ語でズィントゥンというらしいのですが、その中心に浮かぶラルー島はサオ族の祖先の霊が眠る場所らしいです。
サオ族にはさまざまな言い伝えがあり、それによるとズィントゥンにはタクラハという人魚も住んでいるという。
私は最近になってキラシさん、台湾に住むKilash Lhkatafatu/石阿松 さんが2017年に亡くなっていたことをたまたま見たWikipediaで知りました。もちろん、私はキラシさんに会ったことがありません。知り合いでも、まさか友達でもありません。
それなのに、私はまるで昔かわいがってくれた親戚のおじいさんが亡くなってしまったような気持ちになったのです。
私はいつか日月潭に行ってみたいと思っています。
キラシさんがどんなところで、毎日何を見て何を考えて生活していたのか知りたいからです。
考えてみたのですが、キラシさんの魂は今はサオ族の祖先の霊が眠るというラルー島に住んでいるのではないでしょうか。
そこに行けば、私は初めてキラシさんに会うことができるのかも知れません。
……何と声をかければいいか、迷っています。
はじめまして、でいいのでしょうか。
ともかく、いつかお会いする日を楽しみにすることにします。
Kilash Lhkatafatu/石阿松 さんのご冥福をお祈りいたします。