小説 "向日葵の行方"
君の笑った顔が好き"2"
川村は、少し申し訳なさそうに話し始めた。
「あの…夜にお時間ありますか?頭の中で整理してから後でまとめて質問したい事が幾つかありまして、、」
確かに、質疑応答形式で質問される方が僕も教えるのに集中できるしありがたかった。とは言っても川村さんは女性だ。18時に仕事が終わって質疑の量にもよるが、19時20時などとなっては川村さんも暗がりの中帰るのは危ない。返事に迷って少しの沈黙が訪れると、後ろから僕の名前を呼ぶ声と軽くて早い足音が2人の沈黙に釘を刺した。
「瀬川さーん!お疲れっすー!」
聞き慣れた声の主は、同じ施設で働く後輩の秋川だった。彼は僕よりも2つほど年上だが僕の方が一年だけ先輩でこの3年間の思いや考えを共有できる言わば友達のような存在だった。控えめに言っても、容姿は端麗で入居者には人気な存在だったりもする彼は近づくや否や、僕の横にいる川村さんの存在に気付き、目を細めて名札を凝視した。
「新入社員ですか?かわむら、、、」
「美結(みゆ)って読みます!よろしくお願いします!」
満面の笑みを溢しながら浅く会釈をし秋川へ挨拶をすると、秋川も素敵な名前と言い会釈をした。
すると突拍子もなく
「今日の夜三人でどうすか??」
とおちょこを持つ手をして上下に振った。まだ入ってきて間もない川村さんをその人あたりの良さから秋川も気に入っている様子で、残業で質疑応答をするより僕も幾分か良いと思え、帰りも川村さん宅の近くならば安全と思い秋川にしては思いのほか良い提案だった。
すると僕の横で川村は顎に手をやり、いかにも考えてる風のポーズをした後、目を見開いて
「私美味しいお店を知ってるんです!まだここに越してきたばかりなんですけど前に一度行った事があって!そこの焼き鳥がすごく美味しいんですよ!とは言え、そんなにお酒強くないんですけどね」
と、嬉しいのか可愛らしい笑みを溢してその提案を了承した。すると秋川もしたり顔で終わったらLINEしますと捨て台詞を吐き、そそくさと業務へ戻っていった。
そして、午後の日誌とカンファレンスの紙を書いて排泄業務に移行しようとすると、さっきまでメモとっていた川村さんが突然に口を開いた。
「私にもやらせてもらえませんか?特養でオムツ交換はやっていて割りかし得意なので」
「そうですか、なんでも百聞は一見にしかずって言いますしね、お願いしてもいいですか?」
「はい!お願いします!ありがとうございます!」
とお辞儀をして僕は何故だかやらせてる感と言うか言葉に出来ない複雑な気持ちでは、あったものの本人も早く覚えなきゃと焦っているのかその目は本気そのものだったので川村さん独特のやる気に満ちた圧に負けてお願いしてみたのだった。
そして205室に入り、僕から自前に説明した。
「朝川さん。こんにちは。午前は横で見て頂いたんですが、ここにいる新人さんに排泄介助をやらせてあげてもらっても良いですか?」
と耳の遠い本人に大きな声で話すとアルツハイマー型認知症の症状が強い朝川さんは静かに頷いた。
そして川村さんもありがとうございますとお礼を言い、白くてすらっとしている手に、ニトリルディスポグローブ通称ディスポを嵌めて一つ一つの動きを朝川さんに説明と同意を得てから行なった。
時間との勝負になる施設では、その教材の様な介助は少し煩わしく感じたものの川村さんの仕事振りはとても丁寧で他の人には無いようなある種の美しさがあって感心した。そんな感情を持ち合わせていたとは言え、川村さんの、その一挙手一投足をまるで演技をみるかのように見入ってしまった。
朝川さんのオムツ交換はあっという間に終わり
最後にありがとうございましたと別れを告げ居室を後にした。
「どうでしたか?私の介助。おかしいところ無かったですか?」
聞くまでも無い。それほど綺麗で丁寧な仕事をする人に指摘する箇所すら見つけれない若輩者の僕には、完璧そのものと言わざるを得ない介助だった。それは川村さんが綺麗とかそういう贔屓じみたことでは無くて心の底からそう思ったのだ。だが僕も少しばかり先輩であるが故に変な意地を見せつけてしまい、ただ一言
「良いと思います」
とだけ評価をするというオチにいたった。
すると川村さんは満足そうに顔をくしゃっとして笑って見せた。
そして服薬方法の指導など、もろもろの業務が終わって2人で同じタイミングで退勤した。
すこしばかり早めに帰り支度終わらした僕は外でタバコを忙しなく吸いながらずっと放置していたスマホに目をやると、数件のLINEが入っていた。
案の定秋川からだ。
「18時30分に駅着くんで改札で待ってます!」
それに対して今から川村さんと向かうと一言LINEを返すと後ろからガチャと扉が勢いよく開いた。
「お待たせしました、秋川さんから連絡きましたか?早速むかいましょう!」
僕は咄嗟に振り返り、川村さんの声のする方へ体ごと向けた。
後ろで一括りにしている髪の毛に変化はないが、
ベージュ色のタートルネックニットを着ていて、それは川村さんの華奢な身体付きを露骨にしている。そして下には黒のスラックを履いていて直接見ていなくとも綺麗な脚をしているとすぐにわかった。2月の寒い夜に着る羽織りは、すごく暖かくて着心地の良さそうな白のボアジャケットを着ていて、そんな川村さんに一瞬目を奪われてしまった。するとそんな僕を見た川村さんは、自分の全身を上から見下ろして、頭を上げるとその綺麗な指で垂れ落ちた髪の毛を耳にかけては、僕に対して言った。
「なんか変ですか?」
僕は見惚れていたことを隠す為にそれとなく返事をした。
「いや、制服を着てないとそんな感じなんですね。」
「なんか嬉しいです。私、青は似合わないんです。だからここの制服着てると少し違和感ありませんか?」
「いえ、どちらでも僕は大丈夫だと思いますよ。とはいえ、僕もファッションには疎いので、なんとも言えませんが。」
そんな僕は、黒のパンツに白のスウェット生地の服を着て、お気に入りというか、どちらかと言えばどんな所にも着ていけるような黒のマウンテンパーカーをいつも通り着ていた。
「でも瀬川さんはお若い方のファッションと言うよりは無難な格好が似合ってるとこも素敵ですよ」
何故か照れくさそうに言う川村さんは褒めているのか貶しているのか今一度わからなかったが、どちらにせよ褒められて"そうな"感じは嬉しくもあった。少し体が温まったところで僕が口を開いた。
「さきほど、秋川さんから連絡があって駅で落ち合う事になりました。疲れてるとは思いますが早速、駅まで行きましょうか。」
そう言うと、はいと一言だけ小さく寒そうな声で言って僕たちは歩き始めた。
この時の僕は、何故か川村さんとこうして並んで帰るのが初めてでは無いように思えた。まるで何度もこうして並んで帰っていたような感覚があった。にも関わらず僕の頭の中は、この時間は何を話せば良いんだ?とか、帰り道に質疑応答をしたら居酒屋で話す話題なくなるよな?とか、そんな不要な事を考えていた。
そして、凍てつく夜空と人のごった返した夜の街に呑まれてしまわないよう少しずつ前に進む僕たちの物理的距離感は、少しだけ離れていて、まるでそれはノイズキャンセリングのように静かで寂しい時間だけがひたすら流れていた。
続く