「世界文化遺産 軍艦島」滅びの美学
今回は歴史家の雲です。
万物全て始まりがあれば終わりというものはあります。
人類の歴史も必ず終焉は訪れると思っています。
地球上から人類が全て居なくなったら、どうなるか考えたことはありますか?
人類がいなくなった地球の姿が、現在の軍艦島と思いました。
100年間も続いた都市です。
1959年頃が人口がピークの最盛期で世界有数の近代都市でした。
それが最盛期から15年で誰もいなくなりました。
そして廃墟となり、日々都市が崩壊しつつあります。
何故そんなことになったんだろうと確認してきました。
歴史
正式名称は端島(はしま)です。
1810年に端島で石炭が発見されました。
1890年 三菱が島の炭鉱権を取得して、石炭の大規模な発掘を開始
1916年 日本で最初の鉄筋コンクリート製の高層住宅建設
1559年 最盛期で人口5300人
1974年 島が無人化
軍艦島という文明の始まり
端島を軍艦島にしたのは岩崎弥太郎と言ってもよいと思います
明治維新でよく出てくる名前です。
三菱グループの創始者ですね。
先見の明で比較的安価(二束三文で買ったという情報もあります)で端島の炭鉱権を入手して、島の設備と労働環境の整備に投資して、急速に発展させました。
岩礁が大正時代から軍艦島と呼ばれる都市となった
富国強兵の明治時代。石炭を採掘するために端島に都市を作りました。
石炭が発見された頃は岩礁でしかなかったのですが、岩山を中心として6回も埋め立て工事を行って現在の島姿になりました。
拡張工事が終わった姿をとある方向から見た時、大正時代に建造が進められた戦艦土佐に似ているところから軍艦島と呼ばれたそうです。
石炭の採掘のお話
軍艦島へ上陸するには、波の高さ50cm以下が条件です。
上陸率60%以下だそうです。
当日は、無風で快晴でラッキーです。
島の地表で石炭を掘るのではありません。
海底炭鉱まで奥深いトンネルを降りて石炭を掘ります。
この赤いレンガ造りの建物が石炭採掘の入り口です
縦のトンネル、竪坑が作られました。
工員さんは、ここから600m地下へ移動します。
次に真横に2.5Km移動します。
そして400m斜め下が採掘現場だそうです。
つまり地上から1000メートル以上地下で毎日石炭採掘をしているということです。
地下は気温は35度以上で湿度95%で、サウナの中で働いてるようなもの
と、ガイドさんから聞きました。
海底炭鉱も初期は100メートルから300メートルにあったのですが、掘りつくしてドンドン深くなりました。
しかも2キロ以上も横に移動して別の炭鉱から採掘をすることになって、ガイドさんのお父さんは最も過酷な時期に働いてたそうです。
当然、遠く深いほどコスト掛かります。
ガスが溜まって爆発や崩落など事故も多かったそうで、事故が起こると島全体にサイレンが鳴るそうです。
サイレンが鳴るたびにお父さんでないことを気にしてたそうです。
当時の日本では家族のために命がけで働くことは美徳とされていました。
ガイドさんに当時の島の生活を聞いてみました
南北に480m東西に160m一周周っても1.2kmです。
東京ドームとさほど変わらない大きさです。
最盛期の人口は5400名です。
当時の東京都の9倍の人口密度で世界知一です。
なんと大正時代にコンクリート製の建物が建ちました。
炭鉱を掘る方の家族も住んでおり、神社、学校、病院、映画館も散髪屋、スナックなど都市にあるものはすべてありました。
火葬場は軍艦島にあったと記載されてる資料もありましたが、直接聴いたのは北方700メートルの中ノ島を指さしてあの島の火葬場を使ってたと聞きました。
墓地は本土で埋葬してたそうです。
今にもして思えば、お墓が軍艦島にあれば、現在墓参りすら出来ませんね。
三菱の幹部棟はこれです。
身分によって住む場所が決まってたのですね(笑)
呼び出しブザーが付いてたそうで、いたずらっ子がピンポンダッシュして逃げたそうです。
冷蔵庫、洗濯機、テレビという三種の神器は日本本土では金持ちしかなかったものが、この島ではほとんどの家庭にはありました。
給料は高かったのです。
鉄筋コンクリートのアパートです。
エレベータはありません。
建物間を渡り廊下で繋いでます。
わざわざ一階まで降りる必要はなく隣のアパートに移動します
一部のアパートの屋根に庭園を造って、稲や野菜を栽培してました
端島神社は木造が崩れてますが一部残っています
最先端の都市の衰退
100年の繁栄も衰退する事態になりましました。
まあ100年近く掘れば、埋蔵されている石炭も減ります。
あっても遠いトンネルの先です。
近くで採掘するより遠くで採掘するほうがコストが増えます。
そして敗戦から数年経過して、やっと石油の輸入が自由に行えるようになりました。
(日本はまた戦争をするかもしれないという疑いで石油を自由に輸入できなっかたのですが、1950年から解禁になったのです)
軍艦島は石炭以外の仕事はないので全員が島から出ることになりました。
「軍艦島の興亡」という滅びの美学を表した作品
岩礁に過ぎなった端島が世界有数の発展と繁栄を経て、衰退して人が去り都市だけが残されました。
植物や、飛来する鳥などの島になったのです。
半世紀近く過ぎて、都市の建物の崩壊が始まりました。
自然がゆっくりと分解して元の姿に戻していってます。
軍艦島という物語は、土に戻るという締め括りになりそうです。
物悲しいのですが、それこそ滅びの美学を感じます。
ぶっちゃけ、軍艦島は目に映る一部だけ切り取って見れば団地の解体現場と大差ないです。
人が生活していた跡が生々しく残る都市の廃墟です。
団地などの解体現場と軍艦島の崩壊現場との決定的な違いがあります
軍艦島は都市国家と呼びたくなるような島。
社会があり、子を産み、育て、死を迎えるということが100年間続いた物語があるのです。
ガイドさんから外海に面しているので台風が来ると補強などする必要があり大変だった、お父さんが炭鉱で怪我して命懸けの仕事など苦労話の最後に、「軍艦島の生活は本当に楽しかった」と言ってました。
私はこの言葉が聞けただけでも、ここまで来た甲斐がありました!
私が幼少期に育ったのは古い県営の団地で、狭い家で裕福とは程遠い生活でしたが友達に囲まれて楽しかった日々がフラッシュバックして涙が出そうになりました。
自分のためだけでは、命懸けで頑張れないですよ。
誰かのためだからこそ、雑草のように強く、根性で頑張って働いて日本の最盛期である高度成長期を作り上げたと思いました。
精一杯生きた人の物語が美しく思えました。
美術作品は作品そのものだけを楽しむのではなく、作家が作品に込めた想いや、歩んできた人生を知ってこそ作品を本当に楽しむものと思ってます。
軍艦島は、絵画や彫刻に劣らない美術作品と思いました。
軍艦島で見聞きしてわかったこと
1.軍艦島に人がいた時代は全て自己責任であった
2.命懸けで働き、お金をたくさん稼ぐことが美徳であった
3.狭い島でプライバシーが少なく共同生活で不便なこともあった
4.色々あったが、軍艦島の生活は本当に楽しかった
軍艦島で誰かのために、命を懸けて働いた人をがカッコイイ生き様と思いました。
これこそ、古き良き日本人のおくゆかしさであり、美学である!
自分の残りの人生を何に使うのか考えさせれました
軍艦島で働いていた人は、長生きすることを優先しなかった。
(可能であれば長く生きたいとは思ってた)
ガイドさんが最後に言った言葉で「軍艦島の生活は楽しかった」
この言葉がずっと心に残ってます。
これからの人生を使って「楽しく」過ごしますか?
それとも「楽」に過ごしますか?
極端なことを言えば、ずっと外に出ずに家でスマホでゲームでもしていれば「楽」に長生きできる可能性高いです。
山登りてしんどいです。
楽ではありません。
ハンティングで獣と戦ったり、船やスカイダイビングて人生が突然終わる可能性もあります。
でも、しんどくても楽しいです。
たぶん、私は人生を使って「楽しむ」を選択し続けると思います。
自分自身の美意識の問題ですが、常に今が人生の絶頂期と思うようにしてます。
人生の絶頂期に好きな連中と好きなことやっているので、今人生が終わっても悔いはないです。
しんどい人生だったですが、めちゃめちゃ楽しかったと、言いたいです。
余談ですが軍艦島を描いた絵を所有してます。
私の趣味部屋の所蔵の一品です。
藤城清治作「軍艦島」
レフグラフィン版画
当時90歳を超えてたであろう藤城さんが、あの海で船をチャーターしてデッサンをされたそうです。
私がこの記事のトップ画像にした写真と同じ場所でデッサンされたのですね。
私が上陸した時、一羽のトンビが高く舞ってたのが印象的で、この絵にも鳥が舞ってます。軍艦島を作品にしてくれて感謝です。
長文を最後まで読んで頂きありがとうございました。
軍艦島の動画です。
ちょっとでも観て頂けるとありがたいです。(約10分)
こちらは、YouTubeショート動画が1分です。
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