【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#014
暗夜書房発行の雑誌『ビート』のロゴは、欧文の「BEAT」に「・」を加えてデザインしたものだった。出版の世界では「・」を「中黒(ナカグロ)」と読む。文字の間に中黒を入れて「B・E・A・T」として、写植で言えば「ヘルベチカ・ボールド・コンデンス」という縦に長いガッチリしたゴシック書体を、さらに上下に引き伸ばした感じでレタリングされている。
その号の表紙に使われていたのはモデル嬢のバストショットで、髪型は肩までのセミロングで、前髪だけをトサカのようにカールさせた当時流行りのスタイルだった。外撮りで光は逆光。レフ板と呼ばれる写真用の反射板を人物に当て、おそらく一五〇ミリから二〇〇ミリ程度の望遠レンズで撮影している。
望遠レンズとは本来その名の通り「遠くのもの」を写すためのレンズだが、被写体を比較的手前に置くとバックが美しくボケる特徴がある。従って見る者の意識が人物に集中し、尚かつ背景が柔らかく曖昧になので雰囲気が出る。この手法を使い出したのは七〇年代の篠山紀信で、以降、八〇年代グラビア写真の主流となる。
撮影場所を公園などにすると、背景になる森や木々の緑が美しくボケて女の子を引き立たせた。また木漏れ陽が写し込まれるとレンズの屈折の仕方によって水玉やダイヤモンドのように輝くという効果もあった。誰が言い出したのか、木々の緑をバックに望遠で狙うことを「グリーンバック」と呼んだ。
その号の『ビート』の表紙はまさにグリーンバックで撮影されていた。モデルの顔に光がレフ板で強く当たっているため、そのぶんバックのグリーンが深く濃い緑に落とし込まれている。そこにゴシック体で「B・E・A・T」と書かれた文字が白で描かれていた。まさに眼の覚めるような純白だった。
「──ねえ、四ツ谷くん。この『B・E・A・T』のロゴだけど、白の特色を使っているの?」と僕は訊いた。
立ち尽くしたまま、僕は出来上がったばかりの『ビート』を手にしていた。場所はJACK出版のデザインルーム「少年倶楽部」で、完成したレイアウト原稿を受け取りに来たところ。『B・E・A・T』の表紙をデザインした四ツ谷正隆は、ライトテーブルに向かってシャープペンシルを走らせていた。ライトテーブルとはデザイナーや製図をする人が使う専用のデスクだ。全面が磨りガラスになっていて、内部には蛍光灯が埋め込まれている。それでポジフィルムをルーペで見たり、文字をトレース(原図の上にレイアウト用紙を載せ敷き写しをする)したりできる。また作業がしやすいように、わずかに傾斜が付けられているものもある。
「と言うか、白の特色なんてあるの?」
アダルト誌のカラーページは基本四色オフセットで印刷されているが、表紙だけには赤(マゼンダ=M)・黄(イエロー・Y)・青(シアン=C)・黒(ブラック=K)の四色の他に、一色だけ「特色」と呼ばれる色を使うことが許された。もちろん予算的な問題で、だ。絵画を再現する高級美術印刷などでは、特色を十二色、二四色と使う場合もある。
「特色の白なんてあるわけないじゃないか」
四ツ谷はシャープペンシルでレイアウト用紙に文字のアタリを書き込みながら笑った。
「じゃあ、これは白抜きってこと?」
「そうだよ。白は白抜き以外ないよ。紙の色の白だよ」
確かに、印刷で使われる色は四色しかない。しかし朱色に近い「赤(マゼンダ)」一〇〇パーセントに黄「(イエロー)」一〇〇パーセントを掛け合わせると真紅になるように、デザイナーのセンスと腕によって無限に広がる。さらに紙の白さを「白」としてもう一色使えば、さらにバリエーションは多彩になった。
それにしても──、と僕は思った。表紙、それもいちばん大切なタイトルのロゴマークを白抜きにしてしまうとは、なんて大胆なんだろう。その発想に驚いた。
アダルト誌の表紙には目立つように特色の「蛍光ピンク」、あるいはマゼンダ一〇〇パーセントにイエロー一〇〇パーセントを混ぜ、そこに「蛍光ピンク」を加えさらに引き立たせるというのが一般的だった。ちなみに赤一〇〇パーセント+黄一〇〇パーセントの真紅の色を、印刷の世界では「キンアカ(金赤)」と呼んだ。
「まあ、色々考えたんだけどさ」と四ツ谷は仕事を進めながらこちらを見ずに言った。「写真のバックが深い緑だろう、だから白で抜いちゃうのがいちばんインパクトがあると思ったんだ」
少年倶楽部は当時はまだとても珍しかったオートロックのマンションで、床がオールフローリングというのもやはり珍しくお洒落だった。コの字型の広々としたリビングにはデザイナーの飛鳥修平、恭坂凉祐、そして四ツ谷それぞれのライトテーブルがあり、部屋の隅にはトレススコープの暗室。また観葉植物の鉢が数個置かれていた。まさに八〇年代的な空間だった。
飛鳥は仕事が終わったようで、ソファーに脚を組んで座り雑誌を読んでいた。恭坂はその日はいなかった。彼はフリーランスという立場もあるのだが、実に自由気ままに出勤していた。暇な時期には二、三日まったく顔を見せず、かと思うと忙しくなると丸二日、四八時間くらいは眠らずぶっ通しで、しかも平然とデザインをし続けた。「夜の十二時に来るから、それまでに俺のライトテーブルに原稿を用意しておいてくれ」と言われたときもあった。
確か五テーマ、三〇ページくらいあったはずだが、仕事の早い男で、次の日の朝一〇時に僕が訪ねていくと既に恭坂の姿はなく、完成したレイアウトが彼のライトテーブルに整然と置かれていた。
飛鳥は『ビリー』の表紙と、各雑誌のカラーグラビアページを担当することが多かった。横尾忠則や杉浦康平などの流れを組んだ、ポップで東洋的な匂いもするカラフルな作風だった。一方、恭坂はほとんどの雑誌の記事ページをデザインした。『BRUTUS』(マガジンハウス)のアートディレクターとして知られる堀内誠一にも通じる、ゴシック体を本文に使った硬質的なレイアウトである。そしてまだ二一歳の四ツ谷はロゴを白抜きにしてしまうことに代表されるように、荒削りながら誰よりも大胆だった。
どちらにせよ、JACK出版の雑誌はどれもデザインが抜きん出ていた。版元はその誌面作りが欲しいから仕事を発注したいという側面は大いにあったはずだ。編集プロダクションとしては、圧倒的な強みだった。
「さあて、俺はそろそろ帰ろうかな」飛鳥が雑誌を置いてソファーで伸びをした。時刻は夜の七時過ぎになっていた。
「ユーリ、お前、JACKに戻るんだろ。駅まで一緒に行くか」と立ち上がった。
彼の自宅は小田急線の東北沢にあり、少年倶楽部とJACK出版は小田急線南新宿の駅を挟んで徒歩十五分程度の場所にあった。「俺はこれを片付けるまでやってくから」と言う四ツ谷を残して僕らは部屋を出た。
エレベーターを待ちながら、
「飛鳥さんは、九鬼に入ってからデザインを始めたんですか」と僕は訊いた。
「いや、その前にちっちゃなデザイン会社にいたよ。レストランのメニューとか、企業のリーフレットなんかを作るんだ。社員四、五人くらいのチビ会社だからさ、原稿もらってデザインして、版下作って印刷屋に入れて、ページ物だと製本屋にまで持ってくんだ。だから印刷の工程すべてがわかって勉強になったな」
飛鳥は北海道帯広の出身で、美大に入学するために東京に来たものの、大学は三カ月ほどで行かなくなってしまったと以前教えてくれた。「最初のデッサンの授業で打ちのめされたよ。誰もがムチャクチャ上手いんだ。というのも普通美大に行こうってヤツは、専門の予備校でしっかり学んでから入ってくるんだな。俺は田舎者だからそんなことも知らなくてさ、近所の絵の先生に習っただけだった。なまじ自分は絵が上手いって自惚れてたからさ、余計に落ち込んで中退しちゃったわけだ」と。
二年ほどは東京でただ生活するためアルバイトだけの生活だったが、二〇歳になって「これはさすがにマズイ」と思って、新聞の求人広告で見つけたそのデザイン会社に入った。
これもまた、JACK出版に入って驚いたことだった。少年倶楽部の三人のような優れたデザイナーは、当然美大やデザイン学校を出た者たちだと思っていた。しかし違った。それでも飛鳥は一応美術を学んだわけだが、恭坂と四ツ谷はまったくの独学だという。これはデザイナーだけに限らなかった。例えば『ビリー』の執筆者・永山薫は「マングース」という筆名で漫画を描いたが、子どもの頃から漫画を読むのも描くのも好きだったからだと聞いた。
「飛鳥さん、レイアウトってどうしたら上達するんでしょう」南新宿駅へ向かう道すがら、僕はそう尋ねてみた。
「なんだよ、お前、デザインに興味あるの?」
「もちろん興味はあるし上手くなりたいとは思ってるんですが」と僕は言った。
「この間、クロサワさんに言われたんですよ」
「何を」
「僕を少年倶楽部に異動させるかもしれないって」
飛鳥は少し驚いたような顔で僕を見た。
三日ほど前の夜だった。『ボッキー』のレイアウトを進めていると、クロサワが社長室から顔を覗かせ、
「──優梨、ちょっと」と呼んだ。
フロアには僕しかいなかった。大橋とE児は既に帰り、降武は取材に出かけ戻らないとのことだった。
社長室に入ると、クロサワは椅子に腰掛けて足を組み、
「お前、レイアウト、そこそこできるそうだな」と言った。少し前、中神E児が『ボッキー』の発売元・コバルト社の増刊号を作ったとき、僕は三〇ページほどのレイアウトを二日間泊まり込みで仕上げたのだ。クロサワはそれを見たのだろう。「また雑誌が増えそうだ。デザインの手が足りなくなるから、少年倶楽部に行ってもらうかもしれない」と言ったのだ。
飛鳥や四ツ谷と一緒に、少年倶楽部のあのお洒落な空間でデザインが出来るのは魅力的だった。けれど、麹町の出版社にいた頃から大好きだった『ビリー』にやっと関われた、そこから離れなければならないのだろうか、せめて原稿だけは続けて書かせてもらいたい。そんなことを考えた。けれどそもそも、編集だって大変な忙しさなのだ。
「クロサワさんはその辺、どう考えてるんだろう」と僕は言ってみた。
飛鳥は歩きながら「さあな」と呟き、
「俺もさ、九鬼に入ったとき、最初は編集だったんだぜ」と言った。
「そうなんですか」
「ああ。でも藤田健吾さん撮影のビニール本写真集に特化した分室を作ることになってさ、まだ大学生だった降武が入って来て、藤田さんと三人でやり始めた。俺も最初は現場に行ってディレクションもしてたんだけど、ある日、もういいやって思ってさ。俺は俺で、デザインに集中しようって思った。降武は編集の才能があったからな。俺はデザインに突っ走ろうと決めたんだよ」
飛鳥がそこで自分なりに決めたのは、「とにかく好き勝手やろう」ということだった。当時のヌード写真集の作り方というのは、外撮りのイメージカットから始め、そこではモデルにセーラー服や清潔感のあるワンピースなどを着せ、できるだけ可憐に清楚に描く。そして自然光の部屋撮りでソフトなヌードを展開し、後半にバックを暗く落とし込んだストロボ撮影に切り替え、ハードなポーズや女性器がギリギリで見えるか見えないかという刺激的なショットを埋め込んでいった。
「当時、他社のビニ本って、一ページに縦位置の写真を裁ち落としで入れて、女のアソコが見えてる見えないだけで勝負してた。そんなの面白くないと思ってさ、デザインがどれだけアヴァンギャルドで先端的になれるかって考えた。だから最初の扉ページで思いっ切り凝ったデザインをして、自然光からストロボに変わったところで文章をたくさん入れて、そこは書体や文字組の面白さで勝負した。文字なんてビニ本の読者は誰も読まないだろうけどさ、関係ねえやって」
飛鳥はそう言って何かを思い出したように可笑しそうに笑った。
「そうしたら降武が『こんなに何を書けっていうの? 書くことないよ』って泣きを入れてさ、当然だよな。そこでヤツの同人誌仲間だった永山薫さんを連れてきたんだ。彼はバリバリに書ける人だからな、すると俺はさらに悪ノリしてさ、永山さんに全部文語調で書いてくれとか、『次は旧かな使いでお願いします』とか言ってさ、ビニ本が妙なアートみたいになっちゃったんだ」
「そういう発想はどこから来たんですか」
「うーん、そうだな」と、少し考えてから言った。
「俺が北海道にいた一〇代の頃って言えば、六〇年代の終わりから七〇年代の半ばだろう。すべての文化がトンがっていたよな。例えば半村良の小説『妖星伝』の装幀が横尾忠則だったんだけど、最初は文字の色が普通にスミ(墨=黒色)なんだけど、五巻か六巻で本文の文字色が突然、赤になるんだよ。どぎつい紅色だ。当然スッゲー読みにくい。でもカッコイイんだな。雑誌でも杉浦康平がアートディレクションしていた『遊』とか『エビスメーテー』なんかも、一行が六〇字、七〇字あったり、書体もものすごく読みにくかったしな」
なるほど、確かにそうだった。横尾忠則で言えば七〇年代の初頭『週刊少年マガジン』(講談社)の表紙を担当していたことがあったけれど、とても子ども向け漫画雑誌とは思えぬ官能的かつ不気味なデザインだった。一九七四年に発売されたロックバンド「サンタナ」の日本公演ライブ盤『ロータスの伝説』のアートディレクションも横尾だったが、二二面体というアルバムジャケットで常軌を逸していた。
「結局のところさ」と飛鳥は言った。
「ああいうのはヴィジュアル重視ということもあるんだけど、あの頃、横尾や杉浦康平がデザインでやってたことっていうのは、反権力だったり反体制だったりしたわけだろ? イラストレーションで言えば黒田征太郎とかな。それは単に政治的な運動じゃなくて、意識の改革だったわけだ。俺は普通の絵なんか描かねえぞ、当たり前のデザインなんて意味がないだろうってな。だったらエロ本で何をお行儀よくしとく必要がある? 好き勝手にやろうって思ったんだ──」