東良美季

東良美季1958年生まれ。編集者、AV監督、音楽PVディレクターを経て執筆業。著書に『猫の神様』(講談社文庫)『代々木忠 虚実皮膜』(キネマ旬報社)『デリヘルドライバー』(駒草出版)『ヘンリー塚本 感動と情熱のエロス』(VITA)他。

東良美季

東良美季1958年生まれ。編集者、AV監督、音楽PVディレクターを経て執筆業。著書に『猫の神様』(講談社文庫)『代々木忠 虚実皮膜』(キネマ旬報社)『デリヘルドライバー』(駒草出版)『ヘンリー塚本 感動と情熱のエロス』(VITA)他。

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  • 一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。

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【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#015

 美大に入学したものの三カ月ほどでいかなくなってしまった飛鳥修平は、その後約二年ほどはただ東京で暮らしていくためだけにアルバイト生活を送った。バイトは色々とやったが、最も長く続いたのは東銀座の東急ホテルだった。職種はリネン係。客がチェックアウトした後の、汚れたシーツやピロケースなどを回収する仕事だ。給料は安かったが従業員用の風呂があったり、社員食堂も安かったのでズルズルと続けてしまったらしい。  しかし二〇歳を過ぎて「これはさすがにマズイ」と思い、少しでも美術に近い職業をと小

    • 【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#014

       暗夜書房発行の雑誌『ビート』のロゴは、欧文の「BEAT」に「・」を加えてデザインしたものだった。出版の世界では「・」を「中黒(ナカグロ)」と読む。文字の間に中黒を入れて「B・E・A・T」として、写植で言えば「ヘルベチカ・ボールド・コンデンス」という縦に長いガッチリしたゴシック書体を、さらに上下に引き伸ばした感じでレタリングされている。  その号の表紙に使われていたのはモデル嬢のバストショットで、髪型は肩までのセミロングで、前髪だけをトサカのようにカールさせた当時流行りのスタ

      • 【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#013

        #013 空を飛べ、海へ突っ込め。  実家のある新百合ヶ丘駅から電車に乗り込むのが午前八時。朝の通勤ラッシュ時の小田急線は急行列車でも下北沢を過ぎた辺りからノロノロ運転になってしまうから、代々木上原で各駅停車に乗り替えて、JACK出版のある南新宿に着く頃にには八時四五分頃になっている。南新宿駅の細い階段を降りても、僕の頭はまだ半分以上眠ったままだ。帰るのは毎晩南新宿十二時二〇分の最終電車。家に辿り着くのは午前一時半だから、睡眠時間は平均で三時間半ほどだ。暑い夏が終り、九月も

        • 【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#012

          #012 ボスの機嫌のいい時に  その店は坂道のちょうど底にあった。クロサワは「茶店」と言ったけれど正しくは珈琲屋だ。もっと正確に言えば、一九七〇年代の後半辺りから東京を中心に流行始めた「珈琲専門店」である。単なるコーヒーではなくキリマンジャロやモカなどいわゆる「ストレート珈琲」が提供された。一般的な珈琲は「ブレンド」と呼ばれ、アイスコーヒーは真鍮のカップに入れて出された。  店を出るとクロサワは「じゃあな」とこちらを見ずに背中で手を振り、JACK出版のある代々木プリンスマ

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        • 一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。
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          【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#011

          #011 ひびわれたコンクリート、暑い夏。  鷹野龍之介に初めて会ったのも、やはりJACK出版だった。あれは降武と初めて会い、一〇〇円ラーメンを食って別れてから一週間後くらい、『ボッキー』の仕事を手伝い始めて三日ほどだったと思う。僕はその代々木にあるマンションで、大橋から正式に面接を受けた。  JACK出版は社長のクロサワと降武、それにデザイナーの飛鳥修平が出資して作られた会社だったが、クロサワと並んで大橋が最年長だということで、そういった事務的な仕事を引き受けていたのだと

          【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#011

          【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#010

          #010 レスポールが重たすぎたんだろ  すべての写真のアタリを取り終えてトレススコープを出ると、いつの間にかアロハシャツに短パンという姿の中神E児が来ていた。 「なンだ、ユーリいたのか」  とE児はいつものように大きな目玉をクルリと廻し、「日曜だってのにご苦労だなあ」と目尻を大げさに上げて口元の左側だけで笑って見せた。 「中神さんこそどうしたんですか」と訊くと、 「明日撮影だからさ〜、小道具買出ししてきたんだよ〜」と唄うように言った。  エルヴィス・コステロ風のボストン眼

          【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#010

          【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#009

          #009 サマーツアー、離れてわかったことがある。  トレススコープの置いてある辺りは、エアコンディショナーからはいちばん遠い位置にあった。おまけに強い西陽が窓を直撃しているので、紙焼の写真一枚をトレースする度に大粒の汗がレイアウト用紙にポタポタと垂れた。トレススコープというのはプリントされた写真などの「反射原稿」を引き伸ばすデザイン器機で、同時に焼き付けもできるので、広さが畳一畳、高さ一八〇センチほどの小さな暗室になっている。  代々木にある編集プロダクション「JACK出

          【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#009

          【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#008

          #008 無口になった僕はふさわしく暮らしてる  一九八三年の春から初夏へかけての季節を、僕は渋谷南平台にあった古い雑居ビルの一室で、ほとんどたったひとりで過した。ガランとしたコンクリートの壁に囲まれた部屋で、あるものと言えば中古のスチール製デスクがひとつだけ。その上にはやはり中古の黒くて旧式の電話機が置かれていた。  毎朝実家のある小田急線の新百合ヶ丘駅から小田急線で下北沢に出て、そこから井の頭線に乗換え渋谷へ。午前一〇時前にはその部屋の鍵を開けた。夜の間締め切っていた窓

          【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#008

          【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#007

          #007 いい事ばかりはありゃしない  レイアウト用紙にまず縦の線を一本引く。その始点から終点が、一行の文字数となる。そして終点から斜めに上がる線を引き、そこからまた縦線を上下に。つまり欧文の「N」の線を書くわけだが、これで一行が何文字、そして何行にわたる文章になるのかが現される。レイアウト用紙はコクヨなどから出ている市販のものもあるが、大抵、出版社は各雑誌ごとのものをオリジナルで作っている。文字の大きさや段組を決めたものだ。  当時のアダルト誌はA4判が主流だった。これは

          【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#007

          【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#006

          #006 僕ら何も間違ってない  五十崎が僕を呼んだのは、渋谷駅ガード下にある「天風酒蔵・やまがた」という居酒屋だった。国道246線玉川通り沿い、東横線の線路の真下にある。だから西口からでも東口からでもほぼ同じ距離なのだが、いつもの癖で東口に出ていた。  いつもの癖というのは、僕が約一年前まで渋谷区東にある國學院大學というところに通っていたからだ。学生たちは大抵、渋谷駅東口から明治通りと246号線を跨ぐ大歩道橋を渋谷警察方面に渡って通学する。由紀子に声をかけ、初めて言葉を交

          【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#006

          【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#005

          #005 金儲けのために働くなんて 「君に〈覗き部屋〉をご馳走してやろう」と二人でぼったくりの店を迷い込んでしまった島谷さんの下には、結局たったひと月しかいなかった。「五十崎くんの代わりに頑張ってもらわなきゃならないからな」と言ってもらったのだが、翌月には島谷さんが桜庭編集室に人事異動になってしまったからだ。ただ、僕の方は雑誌も同じで座る席も替わらなかった。それまでは四階にいて別の雑誌を作っていた横西さんという人が、新しい編集長としてやってきた。  横西さんは小柄な体躯に伸

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          【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#004

          #004 君はそのうち死ぬだろう 「じゃあ、あんた、いったい毎日何をして暮らしてるわけ?」とその医者は言った。  精神科医というおごそかな肩書きには、およそ似つかわしくないカン高い声だった。黒ぶちの眼鏡をかけた小柄な中年の男で、年齢のわりに黒々と多めの髪は眉の上で一直線に切り揃えられ、まるで帽子のように頭上に乗っていた。診察室に入った時から誰かに似てるなあと思ってずっと見ていたのだが、やっと気づいた。落語家の橘家圓蔵だった。 「えっと、まあ、部屋で本を読んだりとか」 「本を

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          【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#003

          #003 雨も降り出した  年が明け、十一月から行われていた入社試験の結果、さらに六名ほどの新入社員の入社が決まった。公にはされてなかったが、電球頭の上司は編集局長という立場で人事にも深く関わっていたので、応募者の履歴書返送作業は僕がやった。だからおおよそのことは自ずと知ることになったのだ。同じ頃、国城がアサハラの紹介で下請けのデザイン会社に移ることになった。首になる前に再就職先を探してやろうという、アサハラの温情だった。けれどその一週間後、五十崎が首になった。  僕だけ

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          【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#002

          #002 九月になったのに  その日は土曜日で、正午を過ぎると社内にはいつものように競馬中継のファンファーレが鳴り響いていた。特に仕事は与えられていなかったので、自分の机で『編集ハンドブック』を読んでいた。するといつものようにノミ屋に電話をかけまくり、「まったく土曜日は仕事にならんなあ」などと嬉しそうに笑っていた電球頭の上司が、ふと僕の存在に気づいたといった感じで声をかけてきた。 「キミはギャンブルはやらないのか?」  やらない、と答えるとあからさまに不快そうな顔をして、「

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          【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#001

          #001 新宿通りはもう秋なのさ  一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。時給四二〇円のアルバイト待遇である。大学を卒業して約半年後のことだった。あの頃のことを思い出そうとすると、今でも耳元で清志郎の声が聞こえる気がする。  一九八二年と言えば、RCサクセションはシングル「サマーツアー」がヒット。メディアでは日本のロックバンドのシンボル的存在として取り上げられ、まさに快進撃を続けていた。フジテレビの音楽番組『夜のヒットスタジオ』に出演した際は、生放送で清志郎がカメラに向か

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          【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#000

          #000 introduction 二〇分泣いた  二〇〇九年五月二日の夜、僕は自宅アパートのある国立へと向かう中央線の中にいた。  その日は実家のある川崎市の小田急線新百合ヶ丘駅近くで、地元の友達が集まるちょっとした同窓会的な飲み会があり、その帰りだった。  時刻は十一時半を廻っていた。ゴールデンウィーク中ということもあって、車内はさほど混雑していなかった。座席はほぼ埋まっていたが、つり革に掴まっている人がチラホラという程度。少し離れたところに一〇人ほどの男女若者のグルー

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