ASDかもしれないひとからみた世界

...それはどんなものでしょう。
(ただし、ほんの一例です。個人差があるからです)
まず、自分が「フツウ」と思っていることと、真反対の理論が繰り広げられています。「ゼッタイおかしいダロ!」と思ったことが、「正解」とされています。
んだもんで、歳を重ねるにつれて、「正解」が解らなくなってきます。
そして段々と自分に自信が無くなってきます。
「正解」を教えて欲しくて、
幼少期には、人生で初めてにして唯一の教師である親(母親)に対して質問攻めにします。
そして親に嫌われたり、
親が他界したりすると、
今度は占いで正解を導き出そうとします。
何故かというと、残念なことに、ASDかもしれない彼女は、なぜかどこに行ってもウザがられて、嫌われてしまうからです。
(後年、それは彼女が「フツウと異なる」からかもしれない、と気づきますが)
だから、誰にも相談ができません。
そして、50年ほどたって、ようやく、自分が何かがおかしい、と気づきます。
...でも、でもですよ...「フツウ」って、一体何なのでしょうか...
そして、彼女にできることは、「フツウになる努力をする」ことなのでしょうか?
「フツウになる努力」を50年間してきた結果、彼女の身の回りには何重にもウソで塗り固められたオーラができあがってきました。
独りでもヘイキなオーラ、
正論で論破してやるゾのオーラ
強がりのオーラ
エトセトラエトセトラ...
罪悪感を反省とはき違えて、何回も何十回も何千回も自らの頭を殴ってきた結果、
自分で自分がわからなくなっていたことに、少し気づくのでした...
罪悪感を感じないで、自分が感じたことをちゃんと肯定して、
おだやかに、主張していこう、というコンセプトです。。。
といっても、長い間の悲しい出来事が、全部吹っ切れたわけではないのですが。
それと同時に、「フツウ」の人々から見た世界、も知りたいなあ、と思います。

#多様性を考える

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