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【一千文(字/時)評】ノック 終末の訪問者

シャマランの狙いは達成できてると思うけど…

急にやって来た訪問者が「あなたたち家族3人の中から1人選んで殺してください。さもなくば世界が終わります」と言ってきたとしたら怖い。
しかもそれが筋肉ダルマ巨漢デイブ・バウティスタだったらもっと怖い。
でもその物腰や話し方はとても穏便で丁寧で物腰柔らかだったら。
そうなると怖さの質は変わってくるよね。

ここ最近のM・ナイト・シャマランは怪奇SF風味のサスペンス専門の職業監督として良い仕事をしている。藤子・F・不二雄の短編SFのような面白い1アイディアを膨らませて、しっかり面白いものを作る監督になっていたと思う。かつてのような当たり外れの激しい、ムラのある監督だった時期は抜けたと思っていたのだ。その意味で、今回は久々に観客を大いに戸惑わせるものとなっているだろう。率直に言えば、退屈な映画です。

ただ、この「戸惑う」という言葉。実はシャマランにとっては否定的どころか、むしろ喜ばれる言葉なのかもしれないなと思ったり。なぜなら、シャマランの最大の狙いはこの「戸惑い」にこそあるのではないか、というのが筆者の見立てであるからだ。

もちろん先程書いたようにシャマランは職業監督的として完成しつつあると思っている。ただ、そういった職業監督的なキャリアを歩む人の中には、どんな作品を撮っても、はっきりとした作家性が刻印されていることが多々ある。当然シャマランはそこに含まれるわけだ。

ではその作家性とは何かと言えば、それこそまさに観客の中に「戸惑い」を引き起こすことに他ならない。言い換えれば「形容しがたい感情」を引き起こす。ここにシャマランという作家の主眼はあると言っていいだろう。

『ノック』で言えば、バウティスタが見事に体現してみせる「恐ろしいんだけど好感を持てる人物」というのがそれに当たる。他にもシャマラン映画では頻出する「怖いんだけど笑ってしまう状況」もその意図の元で設定されている。つまりシャマランの興味は一言で言い表せるようなわかりやすい感情ではなく、感情と感情の境目にあるグレイゾーンを浮き上がらせることにあるのだ。

この作品におけるバウティスタはその極致と言ってもいい。
つまりシャマラン的には成功なのかもしれない。

ただ観客としてはカタルシス不足なのは否めない。
でもそこは贔屓目に見たとしても、同じ舞台設定で事態も中々動かない中弛みな作品であるには違いないのだが…

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