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長い髪の少女と自分

 金曜ロードショーでピクサーの「塔の上のラプンツェル」をしていた。テレビで放送されているのを見かけるのは初めてだったので、少し気になって観ていた。
 しっかり観ていた訳ではないのだが、印象に残ったシーンがあった。
ラプンツェルが塔から逃げ出して、指名手配か何かされている男と森を進む場面だ。
 ラプンツェルは、母親(ということになっている)に不満を感じていた。ある日突然部屋に入ってきた男と外へと逃げ出す。生まれて初めて外の地面を踏み、様々な事象に触れて感動し、心を躍らせる。しかしそれと同時に、母親に背く自分を悪い子だと責める。でも好奇心やわくわくは隠せるものでもなく、でもこんな自分は悪者で、母親に申し訳ない、と喜びと罪悪感の葛藤が繰り返される。
 この場面を観て、何とも言えない感情になった。ラプンツェル、知らぬ間に母親の束縛と呪縛に雁字搦めになってしまっている。そこまでに描かれていた母親は、最近の流行り言葉でいういわゆる「毒親」のようだ。それに悲しみやもやもやを抱えるラプンツェル。よし、と一度反抗してみても、頭からは母親が離れることがない。母親の思想が言葉がずっとついてくるのだ。
 これは苦しいだろうな、と思って観ていると段々と私も苦しくなってきてしまい、大男のいる飲み屋の場面で早々に自室に撤退してしまった。
 ここから身の上話をするので、「はいはい、自語り乙」と思う人はブラウザバックしてほしい。
 私ももう20を2,3年超えた社会人だ。だが私の頭の中には、両親の存在が強く自分の中に生きている。
 実家に住んでいるということも大きいとは思うのだが、これまで全ての決定権は親にあった。特に父親の権力が強い家庭で、父の言うことは絶対であった。母親もそれに反論はしないので、自分の中の価値観は父親の価値観、で育てられた。
 しかし、学校に行き、他の価値観を知ると、新たに知った価値観でも自分を形成したくなる。その価値観を認めてもらおうと父親や母親に反論してみるも、両親の価値観を真っ向からぶつけられ、自分の形成しかけた価値観は”間違ったもの”として定義される。これをこの年までずっと続けてきた。 

 母親はいつまでも子どもを子どもとして見ている。10歳の頃も15歳の頃も、19歳の頃も、23歳の今も一緒だ。だから「危ない」とか「お金が勿体ない」とか。もう毎月1000円もらっていた中学生の私ではない。夜は外に出ない、夜の道をライトを点けて歩く、くらいの知恵もある。
 そんなこんなで育ってきた所以か、自分で判断する力がかなり低い。自分で判断した時も不安で仕方がない。悪いことをしている気分になる。
どうしても重なってしまうのだ、あの葛藤していたラプンツェルと。
 友達と楽しく遊んでいる夜9時、「盛り上がっているから遅くなってしまうかも」とメッセージを送る。夜の10時「そろそろ帰る」とメッセージを送る。友達の話は耳に入ってこない。不安だ。家で「まだ帰ってこないのか」と言われているんじゃ・・・。夜11時、遊びの余韻に浸ることなく、全力で自転車を飛ばしながら妹に送る。「お父さん怒ってる?家の鍵まだ閉まってない?」
 汗だくで家に帰る。しずかに「ただいま・・・」と父親に声をかける。「遅かったな~早く風呂に入れよ」・・良かった、怒っていないみたいだ。
(返事がない時は大抵怒っているのでそっと自室に籠る。)
 リビングの母親に声をかける。「こんな時間まで遊んで・・・。うんたらかんたら。」
 今日あった楽しい時間は、帰宅後に全て泡のように消えてしまう。
 最近、ハッとした出来事がある。
 ある資格の3級を取ろうとしてリビングでテキストを広げていたら、父親に「そんなの2級を取らないと意味がないだろう」と言われた。
「ああ、そういうものなのか」と急いで2級のテキストを買った。
会社でも勉強しようと2級のテキストを広げていると、「あ、その資格勉強してるんだ。2級ってことは3級持ってるの?」と上司。
「いえ、持っていません。」
「あ、そうなんだ、それ2級からは難しいと思うよ~3級から取ったほうがおすすめ。」
・・・・そういうものなのか。「父親に2級を勉強しろと言われたので」と何も考えずに言った。驚いていた理由が今は何となく分かる。
 何の話だったっけ。
 最後まで観ていないのでラプンツェルがその束縛と呪縛から離れられたのかは分からない。私の母親は楽しそうに観ていた。母の目にはラプンツェルと母親の関係はどんな風に映っただろうか。
 

 
 

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