生きてる人間はだいたいダメなんだって
見えないけど確かにそこに存在するもの。
例えば忖度。例えば愛情。例えばルール。
雨の夜、空を見上げたら真っ暗で何も見えないけど本当はそこには星がある。
見えないけど確かにそこに存在するもの。
それに苦しみ、後悔で押しつぶされそうになった私の心を今もなお救い続けてくれている作品を紹介しようと思う。
『雨夜の星たち』寺地はるな著
できないことは、できません。
やりたくないことも、やりません。
三葉雨音は他人に感情移入できない26歳。
同僚星崎くんの退職を機に、仕事を辞める。
他人に興味を持たない長所を見込まれ三葉は
「お見舞い代行業」にスカウトされ、
移動手段のないお年寄りの病院送迎や
雑用をする「しごと」をはじめる。
文芸界の注目著者が
「めんどうな人」の機微を描く!
https://www.tokuma.jp/book/b582207.htmlより引用
あらすじを読んで分かる通り、主人公三葉は「空気を読みすぎる」今の世の中から少し外れている。
そしてそういった人はたいてい「変わっている」とされ煙たがれるのだが、三葉が会社でそうなることはなかった。
なぜか。
自分も異質だが、それよりも分かりやすく異質な人間がいたから。
それが同僚の星崎くんで、三葉は彼を「スケープゴート」にしていたと語っている。
ここで私自身の話。
前職で私もきっと同僚を「スケープゴート」にしていた。
私にも同僚がいた。仮にSさんとしよう。
Sさんは私と同期入社で職種は違うものの同じ支店に配属された。
特に仲良くはなかったが、同じ空間に同期がいるというのはとても心強かった。
私やSさんが配属された支店は新人が辞めることで有名だった。
今思えばそういう場所だった。
しばらく経つとSさんは休みがちになり会社に来なくなった。
そんなSさんのことをみんな悪く言った。
私にも聞こえるように、私自身にもSさんがいかに変かとか仕事ができないかとかを伝えてきた。
Sさんが来なくなった後に知った話もたくさんあったが、私もSさんが何となく辛そうなんじゃないか、悩んでいるんじゃないかということを本当は心のどこかで思っていた。
だけどそれに対して話を聞こうとか助けようとか思えなかった。
悪く言う周りに反抗できなかったのはやっぱり自分自身が生贄にならないのはSさんがいるからだと分かっていたからだ。
Sさんが会社に来なくなり、周りの「あたりが強くてもいい人」「イライラしたらあたってもいい人」は私になった。
分かっていた。
そうなるんだろうと思っていた。
Sさんが来なくなった後、早く復活してくれればいいのにと思っていた。次の標的が自分だと分かっていたから。
同期として戻ってきてほしい気持ちと上記のような気持ちは半分ずつくらいだった。
だから私が生贄になってつらい思いをするのは罰なんだと思っていた。
人をスケープゴートにしていた罰。
もう一度スケープゴートにしようとした罰。
私と三葉は同じだった。
同僚をスケープゴートにし、三葉は自分がそうなるのを恐れて仕事を辞めた。
私は自分がその立場になり耐えられなくて仕事を辞めた。
三葉は湯気の立つ食べ物を食べないことにしていて罰を受けていた。
私は私自身が同僚がいた周りの標的という立場に立つことで罰を受けていた。
見てみぬフリをした私と三葉は違うやり方で罰を受け罪を償おうとしていた。
星崎くんも私の同僚もそんなことはきっと望んでいないだろうに。
「生きているひとはだいたいだめです」
同僚の星崎くんは退職後失踪するのだが、それに責任を感じる星崎くんの母に三葉がかけた言葉である。
三葉がこう言ってくれたことで、それでいいんだと思えた。
立派なように見えるあの人も意地悪なあの人ももちろん私もみんなだめ。
ダメな事が大前提。
だいたいだめなんだからいちいち誰かに共感したり顔色をうかがったりそんな風にしなくていい。
やりたくないことはやらないしできないことはできないでいい。
見えないものを見ようとがんばらなくていい。
三葉がそう教えてくれた気がした。
私と三葉は似ている。
似ているけど私は三葉ほど割り切れてもいないしめんどくさい人間だ。
だからこそ彼女が好きで、あこがれている。
いつか書こうと思っていたがnoteの名前になっている「あまね」は三葉雨音からとった。
人をスケープゴートした罪にとらわれ罰を受け続けた私たちは、それを心の片隅におきながら今日も生きている。
三葉は同僚と再会するのだが私が同僚と再会する日はきっと来ないだろう。
だから私はこの罪をかかえて時々思い出しては苦しくなる。
でもこの作品が、三葉が私を救い続ける。
見えないけど確かにそこに存在するもの。
そればかりにとらわれず自分自身の気持ちを大切にしたい。
目の前にいる大切な人を大切にしたい。
それでいいんだと『雨夜の星たち』は教えてくれた。