公民の授業はなぜ眠たいのか。
はじめに
公民の授業は眠たい。これは、日本の教育機関で公民科目を受けた人ならば、差し支えなく頷いていただける定説だと思う。かくいう私も、学生時代は寝ることが多かった気がする。
なぜ、こんなに眠たいのだろうか。
学生時代は眠る側、現在は眠らせる側に立っている私なりに、理由を考える。
2つの理由
理由1.「近接性」が低い
まず、理由の1つ目は、「近接性」が低いから。
近接性はちょっとカッコつけたかっただけなので、地理学の用語らしいけど使わせてくれ。
つまり、「公民」という科目が身近な題材ではないから。これに尽きる。
高校生の興味の幅は、ある程度限られている。高校生活で携わる、勉強・部活・友人・恋人関係を中心に、趣味の音楽や漫画、ゲームなど、このあたりで飽和していると考えられる。もちろん全員そうというわけではないし、それぞれの割合も違うだろうが、わざわざ「公民」に興味を示す子は、かなり希少といえる。
近接性の話に戻るが、政治や経済がどんなシステムで動いているか。こんなものは、知らなくても問題なく生活はできる。さらに、知ったところですぐに関わるものでもない。高校生からすれば、政治はいうまでもなく、経済活動についても、お小遣いやバイト代を好きなものに消費するくらいしかしていない。そんな状態で物価や金利だと説明されても遠すぎるのだろう。
授業の準備をしていると、先生たちが興味を示してくれる場合が多い。
それは、大人になると政治や経済が比較的身近になるからだと言える。つまり、「近接性」が高いのだ。
理由2.「余白」の多寡
しかし、公民と同じ社会科の授業でも、「歴史」は比較的、興味を持つ生徒が多い気がする。私は、この違いは、「余白」の多さにあると考える。
日本史や世界史の場合、ある程度の史実は確定しているものの、実際にどうだったのかというところは、不明瞭なことが多い。この不明瞭さが良いのだと思う。というか、自分もそうだった。この不確実な「余白」の部分に、自らの自由な発想・妄想を巡らせることができるのだ。これが、ロマンと訳されたりすることもあろう。
公民には、その「余白」もない。当たり前だが、政治や経済に不明瞭な点があることは、問題だ。なので、縁遠いくせによく分からんシステムで成り立っている公民の授業には、高校生が思いを巡らせる余白がないのである。退屈さを生じさせる要因だ。
目下の課題
では、「公民」の授業はどんな風に行うべきか。
私は、可能な限り身近な事例を出しながら、説明をするよう意識している。ただ、限界もある。そもそも「公民=縁遠い=退屈」、この三段論法チックな式が完成してしまっている生徒には、なかなか響きにくい。公民に限った話ではないかもしれないが。
身近な例で、興味を持たせる授業は続けるつもりだが、どれだけ身近に感じさせても、関係ねーじゃんと思われたらおしまいといえる。最近では18歳成人、選挙への招待という形式で政治分野の説明をしたが、1年後にあるかもしれない話と言われたところで、高校生の数年は遠い。
高校生活の3年間を全うしている彼らにとっては、年という単位であることが、もうすでに近接性を低くする要因になっていると思う。
脱線
大人になるにつれて薄れていく感覚だ。毎日のように会っていた友人と、数か月ごと、人によっては地元に帰るお盆と正月にしか会わないとなると、1年が驚くほどの早さで進んでいく。
「また。次は来年か」、こんな言葉が平気で飛び交うことになるとは、彼らは想像もしないだろう。今のうちに、遠い1年を体感しといて欲しい。
おわりに
最近、「ウルフ・オブ・ウォールストリート」というディカプリオ主演の映画(かなり刺激的で面白い、ぜひ反面教師にしたい内容)を見たが、そこで、ボールペンを売るシーンがあった。
多くの人は、初めて触るボールペンの機能や良さをなんとなく説明していく。そんな中、作中でセールスが上手いとされている人物は、不意に「名前を書いて教えてくれ」と言い、相手方が「書くものがない」と言うと、ここにペンがあると言って売りつける方法をとっていた。
「需要と供給だ」とカッコつけてたし、理屈も分かるが、私からすれば、前提の部分で「なんで、あなたに名前教えなあかんの?」となって、需要は消失した。
多分、公民の授業もこうなっている。だから、眠い。