
長野県伊那郡の「おじろく・おばさ」の実態
長野県伊那郡では、かつて「おじろく・おばさ」と呼ばれる風習が存在していた。これは、次男・三男や次女・三女が長男や長女の家に居候し、生涯にわたって働き続けたという話がネット上で広まっている。しかし、民俗学の文献に登場する「おじろく・おばさ」の実態は、ネット上で語られるような過酷なものとは異なるようだ。
民俗学に見る「おじろく」の姿
民俗学者の記録によると、「おじろく」は「オジボー」とも呼ばれ、家族内での特異な存在として描かれている。例えば、長野県下伊那郡神原村(現天龍村)の山村を訪れた際、囲炉裏のそばに座る60代の男性が「おじろく」であったという。この男性は、若い頃から変わり者とされ、結婚もせず甥の家に居候していた。
「おじろく」は、社会的には半人前とみなされる一方で、温和な性格と労働力のある存在として家庭に貢献していた。朝の祈りや習慣、独特の趣味(扇子を好むなど)を持ちながら、家族の一員としての日々を過ごしていた。
民俗学者の記録にみるオジボー・オジロク
「長野県下伊那郡神原村(現天龍村)の向方(むかがと)といふ山村を訪れた時であった。ある家を訪ねると囲炉裏の傍に頬かむりをしたまま座り込む60代くらいの男がいた。
最初は家の主人かと思ったがその男の態度が少し違っている。後で聞くとこの地方でオヂキまたはオジロク(オヂロク)と呼ばれている居候の類だと言う。家の主人の叔父にあたる男で、若い頃から変わり者であったことから結婚もせず甥の家で厄介になっているのだと言う。
朝を起きると井戸に行って何回も顔を洗い、口をすすいで神仏を拝む。他人から扇子を贈られるのが何よりも嬉しいらしく、一年中なん本も腰に差している。
改めて説明するまでもないが薄ら馬鹿や半人前の扱いを受けていたことは知れる。ただし性格は温順で体力があり、労働においては大いに役立つという。この地でオヂボーまたはオヂロクと言えばこうした素質と境遇にあるものを指すのが常識になっている。」
「おじろく」の役割と意味
「おじろく」や「おばさ」は、独身で兄弟や甥姪の家に居候する立場の男性・女性を指す言葉である。伊那のあたりでは独身で兄や甥の家に居候している男性をオジボー(オヂボー)やオジロク(オヂロク)と呼ばれていた。
オジボーという呼び名の由来は、「叔父(オジ)」と「子供(ボー)」が組み合わさり、家庭内の従属的な立場を象徴していたとされる。叔父でありながら子供(ボーズ)ということでオジボーになったのではないかとされる。
「おじろく」は、食事を家族と分けて取るなど、待遇の面では差別的であった。しかし、農作業や家庭の労働においては欠かせない存在であり、その働きは家族にとって重要であった。村の慣習では結婚して一人前と認められるため、未婚の「おじろく」は社会的地位が低かったが、家庭内では重宝された。
家の主人とは血を分けた肉親であるがその待遇には大きな差があり、夕飯は框(玄関や土間の上り)に腰かけて食べいたと言う記録がある。社会性に欠け、村の人々とはそりが合わない性格であったが、家長に対する態度は従順であったとされる。
独身で居候しているゆえに周囲からは小ばかにされる存在ではあったが、よく働くことからオジボーやオバー(居候の女性)の存在は有難いもので、オジボーの居る家はお金の回りがよくなると言われた。結婚をして一人前の男として認められ、村の運営の携わるようになると、家長は葬儀や祭りなど村人の交際に時間を取られる。このため、家長である長兄は家の労働をする時間が取りにくかったのではないかと推測される。
昔の村社会では結婚の経験がない者は一人前とは認められず、葬儀などに関しても子供同然の扱いを受けたと言われる。未婚ゆえに周囲から蔑まれたオジボーであるが、村の運営に関与せず家の労働だけに専念する存在なので非常に有難いものであったとされる。
家長との関係と収入
オジボーは主に家の農作業に従事していたが、時によその家の手伝いもした。その際の礼金は家の主人(兄もしくは甥)の懐に入ったとされる。
しかし、オジボー独自の収入源もあったらしく、小さな用事をこなした時のお駄賃や、秋の山でのキノコの狩り、正月前には自然薯掘る。草鞋を編む。村の結婚式や葬式の手伝いでもらう心づけが収入源であったと言う。このような稼ぎを家長が奪うことは無くオジボーの懐に入った。
使い道もあまりなくお小遣いを貯めていることが多いので、祭りのときには子供にお菓子や玩具を買ってやったりするもオジボーもいたそうだ。
肌身離さずへそくりを持ち歩くオジボーも居たそうで、あるとき紙幣をぬかるみに落とし、あぜ道に落とした紙幣が乾かしてあったという逸話もある。
長男以外の男たちの境遇
山間部では土地が少なく、分家が難しいため、長男以外の次男や三男は恵まれない境遇に置かれることが多かった。「おじろく」として生家に居候するか、村を出て生活を立てるかの二択を迫られた。
オジボーとして家の居候する生活はまだ良い方で、耕す田畑を持たない次男三男は体が健康なうちは山に入って木こりや食器づくりの職人となって生計を立てたという。
しかし、木を切ったり挽いたりする仕事は重労働なので体を壊すと生家に身を寄せるより他はない。あばら家に住んで一から土地を開墾することもままならず、そよの街へ働きに出たが環境になじめず村に出戻ることも多かったという。
山間部は土地が狭く分家が中々できないので、長男だけが家も田畑も受け継ぐシステムであった。オジボーとして生家に居候している身であるためその地位は低く、病気をしても労働を強制され、寝込んでいると食事に呼ばれないと言う事もあったそうだ。そんな自分の境遇を受け入れて次男三男はオジボーとして生きたようです。
「おじろく」の存在意義
「おじろく」は、家庭内での地位は低かったものの、その労働力は家にとって不可欠なものであった。病気や高齢による困難な状況でも、「おじろく」はその境遇を受け入れ、生涯を家族のために尽くした。現代から見ると厳しい制度に映るが、当時の村社会では、家族単位での協力と分業が生存のために不可欠だったことが伺える。
参考文献:いわゆるオヂボーのこと(早川孝太郎)