雑記 「がんばれ」を憚った。
先日相互の方の記事に、コメントをした。
こちらまで心を打たれたような、傷跡を文章に感じて、
無性に「がんばれ」と声をかけたくなったのだ。
その方の記事は、グルグル目の回るような、心の谷底を感じさせた。
私には、それがわかってしまった。
知っていたからだ。
その傷跡に似た傷を。
幸い、私は既にこの谷底を抜け出しているのだが、それは強さ故ではない。
私の弱さ故、僻み故、私は抜け出したのである。
自分が嫌いになって、ほんとうに嫌になって、もう三年、あと少しで四年。
三年前まで、私も同じ傷を抱えていた。
自分を傷つけ、そして傷つけられ、膝を抱えて横向きに転がるしかなかった日々。
「がんばれ」に飽き飽きしていた。
「がんばれ」に辟易した。
だってこんなにまでがんばったというのに!
これは頑張りとは言えないのかと、ひどく落胆した。
抗議する声さえあげる気力はなくて、自分の心のうちを曝け出すのも、明け渡すのも、恐ろしくてできなかった。
話をすることさえ、怖がった。
話したとて、期待する未来はない気がして。
がんばれと背中を撫でられることを恐れた。
私がご厚意を突き返すあまりに、他人はだんだんと私に冷めた目線をよこし、
私は泣いた。勝手なものである。
私と同じように、「がんばれ」を怖がる人は、割といる。
がんばっている人に、「がんばれ」と声をかけることは、今のその人の頑張りを
貶す行為のような気がしてしまって、私はいつも「がんばれ」が言えない。
そんなことはないというに。決してないというに。
他の方が「がんばれ」と声をかける姿には、いつも胸を打たれる。
暖かさに心が震える。
「がんばれ」の力は知らずうちに情熱を感じさせる。
知っている。
「がんばれ」を背負った人の強さも、
「がんばれ」に受けた温もりも、
「がんばれ」を知った人の涙も。
然しまた、「がんばれ」に弱った人間も、幾つも見た。
私もそのうちの一人だから、「がんばれ」じゃあなく、かといってこれ以上沈ませないために、と深く考え込んでしまっていた。
それでいうと、「大丈夫」という言葉もまた、トラウマですらある。
「大丈夫」と「がんばれ」
どちらもいうべきタイミングで他者よりワンテンポ遅れてしまう言葉だ。
遅れるどころか言えない時すらある。
愚かな、、だがそれもまた、必要だったと言われれば、必要です。
細心の注意を払って、人と接すること。
私を正しく導いてくださるもの。
傷のつきかたを知らなければ、傷に気づくことなどできやしないのだから。
優しい人は傷に気づけるよ。
それで、優しい言葉をかけたりもするんだ。
その人に気づいて、見守る人もいたりするんだ。
きっと見守るその人も優しい人だ。
優しさに気づく人だから。
たとえ、優しくできなかったとしても、優しさに気づけるだけ、優しいさ。
優しさの定義はもっと広くていいのだと思う。
「がんばれ」も「大丈夫」も、繊細に扱うべきだと今でも思うものの。
もう少し強くあっていいなぁと思う。
「好き」も「嫌い」も、大事にするべきだと思うけれど、
もう少し素直であっていいなぁと思う。
「がんばれ」を憚った私が、間違いだとは思わない。
誰だってぐるぐる悩む時はある。
その負のループに負ける時もある。
「大丈夫」を言わないようにした私が、おかしいとは思わない。
考えすぎだとも思わない。
でも、人の心が生み出す「がんばれ」も「大丈夫」も「可哀想」も
そうなるのが当然である場所で、やはり心に響くものがある。
素直な人の心が滲みる時がくる。
聞き流したそれが、愛しくなる時がきっと在る。
だから惜しまず、もう少し素直になってみたい。
「がんばれ!!!」
人の人生に、興味を持って、人の人生に、応援して、
見えない傷跡がきっとあって、それは身に覚えがあって。
「大丈夫?」
人の失敗に、共感して、人の悲しみに、寄り添って、
私もきっとそう生きる。
必ず私もそう生きる。