鶏の境界線。
母は5人兄妹の2番目。
男3人、女ふたりの長女である。
9歳離れた妹である叔母は、
天然ボケの母とは真逆の性格で、
とにかく堅実、努力家、なかなかのチャレンジャーでもあった。
人生で何回か仕事を変え、その度に資格を取り地道にコツコツとやる叔母は子供の頃から
ちょっと歳の離れた憧れの姉のような存在だった。
戦後すぐの生まれで食糧状況が悪い中、
取り立てて好き嫌いはないようだが、
唯一叔母が苦手なのは鶏である。
どんなに小さく切ってあっても
鶏を見つけ出して上手に避けて食べるので、
何も言わずに料理に鶏を混ぜる母や祖母の魂胆のほうが
幼いわたしにとっては悪のような気がしていた。
嫌いなものの話しを本人に向かってするのは忍びないので、
尋ねたことはないが、
鶏嫌いの発端は
肉屋の軒先に干された鶏の姿にあるらしい。
昔はかしわ屋の店先に、内蔵を抜いた鶏を血抜きをするために下げていたようで、
幼い彼女が原体験として「死体」としての鶏を見て衝撃を受けたのは容易に想像できる。
それ以来叔母は鶏嫌いになったのだ。
母の兄妹はとにかく仲が良く、
昔は正月、盆、年末、何かの記念日にと
良く集まり酒を飲んだり、
持ち寄りのおかずをつついたりと宴会をしていた。
ある時、久しぶりに親戚の会に出ると、
叔母は所用で遅れるという。
何をしているのかと思えば、
程なくやってきて大きな荷物を置く。
ぷーんと匂ってきたのはあのみんなが大好きな香ばしい匂い。
子供達はその匂いに誘われて
我先にと叔母の持参品を開け、
ワイワイと始める。
その頃まだ幼かった娘がわたしに耳打ちをする。「ねぇ、ケンタッキーって鶏だよね?」
そう、ケンタッキーは鶏だよ。
それからも宴会の度に
叔母はケンタッキーのパーティバーレル大を抱えてやってくる。
他の料理と違って、
骨付きのチキンはリアルな鶏を想像しやすいタイプの食べ物だけどとわたしはその度に思う。
ケンタッキーって、
ほぼ鶏と言っても過言ではないと思うが、
彼女は平然と
「わたし食べないもん。でもみんな好きでしょ」
と言う。
竿の目に切った鶏肉は避けるのに、
ケンタッキーは列に並んでまで調達する叔母の鶏嫌いの「境界線」がよくわからない。
ひょっとすると、
叔母は80歳を目の前にして
鶏を隠れて克服してるのではないかとさえ、わたしは疑い始めているが、
やはりここは鶏の話題はするべきではないと思っている。