反体制派が内戦に勝利した例まとめ〜シリアの民主化は遠い〜
シリア情勢は急変している。なんと南部でも次々と反乱が起こり、アサド政権は崩壊してしまった。予定よりも遥かに早い。アサド大統領は空港から逃亡したとされるが、ホムス上空で搭乗機が撃墜されたとの説もある。
筆者としては、この展開は驚きだった。確かに現地人に支持されない政権は脆い傾向があるが、アサド政権は2011年の内戦勃発後も驚異的な粘り強さを見せており、これはロシア・イランの支援だけが原因ではない。アサド政権は少なくとも国民の半分ほどには支持されていたはずだ。それにも関わらず、急速な崩壊を見せている。この数年でシリア国民の世論が大きく変わったということだろうか。
ところで、今回の内戦勝利はあまりポジティブな影響を与えないだろう。民主化というものは政権が平和的なデモに譲歩する形で行われることがほとんどだからだ。欧州でもアジアでも民主化に成功した国はだいたい非暴力と国民融和が基調にあった。東ドイツやポーランドでは共産党員は特にお咎めなしだったし、韓国のように民主化後最初の占拠で軍事政権の人間が当選してしまうという例もある。
一方、暴力による政権打倒は良い方向に向かうことが殆ど無い。特に内戦による首都陥落は最悪の形態だ。内戦は一般に反乱軍が勝利した場合は体制側が勝利した展開よりも予後が悪いことが多い。今回は反体制派が内戦に勝利した事例を読み解くことによってシリアの将来を占いたいと思う。
内戦の分類
筆者の独自分類だが、内戦には大きく分けて3種類が存在する。
1つ目は政府軍に対して反乱軍が戦うタイプの内戦である。シリア内戦は典型例だ。古くは太平天国の乱のような農民反乱もこれだ。「反乱型」と呼ぶべきだろうか。反乱軍は基本的に全国規模の政権奪取を目的としている。ギリシャ内戦、第一次リビア内戦、アルジェリア内戦、コロンビア内戦、エルサルバドル内戦、グアテマラ内戦、シエラレオネ内戦、他にもたくさんある。
2つ目は何らかの事情で政権が崩壊したあと、権力の真空を巡って各勢力が争うタイプの内戦である。ボスニア内戦は典型例だ。レバノンのように最初から国家が真空という珍しいパターンもある。「戦国型」と呼べるかもしれない。イラク内戦、イエメン内戦、フィンランド内戦、南スーダン内戦、第二次リビア内戦、ソマリア内戦、タジキスタン内戦、アンゴラ内戦、他にもたくさんある。
3つ目は地域の独立や自治権を巡る紛争だ。チェチェン紛争は典型例である。植民地からの独立戦争もこれに含めることができるかもしれない。「地域型」と呼べるだろう。クルド紛争、バングラデシュ独立戦争、スリランカ内戦、コソボ紛争、スーダン内戦、ウクライナ東部紛争、ビアフラ戦争、他にもたくさんある。
どれにも分類しにくい内戦はレバノン内戦だろうか。戊辰戦争のように暴力の独占できていない近代以前の国家の内戦と同じ構図であり、レバノンという国の特殊性が垣間見える。ミャンマー内戦は地域型の集積体というべきだが、最近は反乱型の要素が加わっている。スペイン内戦は「反乱型」に分類できるが、反乱軍が正規軍の分裂によって生まれた点で特異である。
このうち、「反乱型」でかつ反体制側が勝利した例を考えてみたいと思う。
1949年、中国
第二次世界大戦後に最初に世界に衝撃を与えたのが国共内戦での共産党の勝利である。中国は辛亥革命以降、40年間によって内戦が行われてきた。中国国民党も決して全土を支配していたわけではなく、軍閥の寄合世帯という性質が強かった。そういう意味では「反乱型」とも「戦国型」とも取れる。
中国国民党は日中戦争を8年にわたって耐え抜いたのだが、その政権はあまりにも腐敗しており、同盟国のアメリカにも辟易されるくらいであった。1946年の時点では国民党は統一政府のように思えたが、インフレによって国民の支持を失っていた。一方の共産党は日本軍の遺棄兵器を満州で手に入れ、ソ連の支援もあって一気に強大化し、1949年に国民党を打ち負かして中国全土を統一した。
共産党は規律正しく、国民からも支持されていた。だが、それは民主化とは全く別の話であった。毛沢東は早速中国市場最も権威主義的な政権を構築し、大躍進政策によって大量の餓死者を出した。その後の文化大革命は過ちを認めない共産党ですら歴史的悲劇を断罪するほどひどいものだった。
1959年、キューバ
世界史上の大逆転勝利と言えば数え切れないが、特にすごいのがキューバである。弁護士のフィデル・カストロは1959年に僅か十数人の仲間とともにキューバに上陸し、支持者を増やして首都に突入、ラテンアメリカ初の共産主義革命を引き起こした。
カストロはやはり国民から支持されていたと思われるが、だからといってその政権が民主的であるとは言えない。キューバはこの記事で上げる事例の中では最も穏健で建設的だが、やはり民主化ではなかった。
1975年、ラオス
普通はこの手の話ではベトナムから始めるのが筋だろう。インドシナ半島は1945年から半世紀にわたって殺戮が続いた戦争の時代だった。ベトナムは共産党の統治する北部と、不人気な軍事政権が統治する南部に分かれ、殺し合いを繰り返した。ただ、第一次インドシナ戦争は独立戦争のカテゴリに入ってしまうし、ベトナム戦争は反体制派といっても実態は北ベトナムの軍隊だったので、やはり性質がちょっと異なってしまう。内戦の形態を取ったのはラオスである。
ラオスはベトナム戦争と同時並行で共産党との内戦を戦っており、両者は実質的に一つの戦争だった。北ベトナム軍の進軍ルートはラオス国内を通っており、米軍の激しい爆撃にさらされている。したがって、一般にベトナム戦争と呼ばれている戦争は本当は第二次インドシナ戦争と呼ぶのが正しいだろう。
ラオスではサイゴン陥落と同時に共産党が政権を奪取した。ラオスの王族は逮捕され、獄死したと思われる。世界の革命で国王が殺害されたのはイギリス・フランス・ロシア・イラク・ラオス・エチオピアのみである。で、ラオスが民主化したかというと、しなかった。現在に至るまでラオスでは人民革命党の一党独裁が継続している。ここは中国やベトナムと同じである。
1975年、カンボジア
有名なので説明は要らないと思うが、ラオスと同時並行で内戦が戦われ、ラオスよりも遥かに悲惨な運命をたどったのはカンボジアである。カンボジアの共産党はなぜかベトナムやラオスよりも遥かに過激で、文明の破壊と無制限の暴力行使で理想社会が訪れると本当に信じ込んでいたらしい。4年間の統治で国民の25%が殺害され、内戦よりも遥かに多くの血が流された。ポルポトはカンボジアの革命を称して「人類2000年の歴史の中でも前例のない革命だ」と言っていたらしい。これは正しい。前例のないくらいひどい革命だったということだ。
カンボジアの殺人政権は1979年のベトナム軍の侵攻で崩壊する。しかし、信じられないことにポル・ポト派はその後も20年にわたって抵抗を続け、中国とタイは彼らを支援していた。西側諸国も黙認していた。結局1993年の和平合意でポル・ポト派は排除され、1999年に壊滅した。幹部は裁判にかけられている。
カンボジアの内戦では反乱軍のポル・ポト派が勝利したが、民主化どころの騒ぎではない。人類史に残る惨劇といえる。
1979年、ニカラグア
中米の一連の戦争の中では唯一ニカラグアは反乱軍が勝利した内戦だった。ニカラグアはソモサ一族による統治が40年以上も続いていたのだが、あまりにも腐敗がひどかったため、全国で反乱が起きてソモサ政権はあっさりと倒れてしまった。首都に突入したサンディニスタ軍は新たな民主主義政権を確立しようとした。
しかし、そうは問屋が卸さなかった。ニカラグアはすぐさま第二次内戦に突入した。サンディニスタ政権に反対する右派民兵をレーガン政権は支援し、結局冷戦終結までニカラグアは激しい内戦が続くことになった。
1979年、チャド
チャドは1979年辺りから1990年まで内戦の季節を迎えている。チャドという国は建国以来一度も平和的に大統領が交代したことがないことで知られる。全てクーデターか内戦によるものだ。最終的にチャドの内戦はイドリス・デビが1990年に首都を攻略することで終結している。
2021年にデビは戦闘で負傷し、死亡した。息子が後を継いでいる。やはり平和的な政権交代は起きなかった。
1979年、ローデシア
それほど戦闘規模は大きくなかったが、もう一つのアパルトヘイト国家であるローデシアでは自由を求める黒人ゲリラと白人の入植者政権の間で戦争が勃発していた。結局白人側がアパルトヘイト国家の存続を諦め、黒人側に譲歩する形で内戦が終結した。和平合意によって集結したので、他の内戦とは毛色が違うかもしれない。
内戦に勝利した黒人勢力のリーダーはは白人との融和を進め、国際社会は新政権を高く評価した。リーダーの名前はロバート・ムガベ。後にジンバブエに惨禍をもたらす独裁者である。
1986年、ウガンダ
ウガンダでは凄惨な殺戮が続いていた。元々は1971年にクーデターで「人食い大統領」イディ・アミンが権力を握ってから不安定が始まった。アミンは30万人もの国民を虐殺し、隣国タンザニアに軍事侵攻した。しかし、タンザニアに逆に攻め込まれ、アミン政権は崩壊してしまった。
これ以降、ウガンダ・ブッシュ戦争と呼ばれる内戦が6年にわたって続くことになる。1986年にヨウェリ・ムセベニがウガンダを統一し、現在まで長期政権が続いている。ただし、北部では神の抵抗軍による反乱が起こっている。
ウガンダもまた民主化とは程遠く、内戦の果てに権威主義政権が樹立されるというよくある展開を見せた。ただ、ムセベニの統治はそれなりに安定していて、国民からの信望はあるようである。
1990年、リベリア
この時期のアフリカは似たような事例があまりにも多いので、解説は省略していく。リベリアにはドウ政権という何一つ評価する点がない腐敗独裁政権が存在していた。この政権は自分たちを統治することすら出来ず、反政府軍があちこちで蜂起してあっさり崩壊してしまった。
首都を攻略した反政府軍は四分五裂し、今度はお互いで殺し合いを始めた。特に悪名高いのがリビアの支援を受けたテーラー大統領の軍で、彼は国際裁判で終身刑に処されている。リベリアは世界最貧国のままである。
1991年、ソマリア
ソマリアには社会主義寄りの独裁政権が存在していたが、冷戦末期の混乱により各地で反乱が勃発し、政府が崩壊した。現在に至るまでソマリアは無政府状態のままである。詳しくは高野和明のソマリランド本などを読んでほしい。
1991年、エチオピア
エチオピアでは1974年の革命で国王が殺害され、メンギスツ・ハイレ・マリアムによる共産主義政権が誕生していた。この政権は非常に残忍で、多くの国民が虐殺されていった。だが1991年にソ連が崩壊すると後ろ盾がなくなって、各地で反政府軍が蜂起し、崩壊するに至った。
エチオピアの新政権は比較的まともだったが、1998年に隣国エリトリアと全面戦争に至った。メンギスツ・ハイレ・マリアムの打倒とともにエリトリアはエチオピアから独立したのだが、両国には国境争いがあったのだ。一つの国が2つに分かれたパターンは本当に仲が悪い。
メンギスツはジンバブエに亡命し、現在も存命である。当然、エチオピアではメンギスツは大量虐殺の罪で告発されている。数年前にエチオピアの元大統領がジンバブエに旅行してメンギスツとのツーショットをフェイスブックに上げたのだが、即座に炎上して消す羽目になった。何がしたかったんだ。。。
1992年、アフガニスタン
アフガニスタンの共産主義政権もまたソ連の後ろ盾に依存した残忍な政権であり、エチオピアと良く似た運命をたどった。詳しい経緯を説明すると複雑である。共産主義政権はソ連軍が1989年に撤退した後も3年ほど粘り続けたが、1992年についにカブールが陥落し、大統領は後に八つ裂きにされた。反政府ゲリラは程なくしてお互いに争い始めた。
この混乱を収拾すべく勢力を拡大したのがタリバンである。タリバンは大変国際社会で評判が悪いが、タリバンですらマシに思えるくらいに他の勢力がロクでなしということでもある。この後もアフガニスタンでは延々と戦争が続いていて、2021年のタリバンの全土攻略でようやく安定が戻っている。ただし、タリバンは現在に至るまで国際社会から承認されていない。
1994年、ルワンダ
1990年からルワンダでは内戦が始まっていたのだが、1994年に和平合意が結ばれていた。しかし、その直後に大統領の暗殺事件が起き、世にいうルワンダ大虐殺が勃発した。反政府軍は虐殺の発生と同時に一斉攻撃をかけ、ルワンダの政権を駆逐し、虐殺を阻止した。現在に至るまでルワンダでは反政府軍のルワンダ愛国戦線が独裁統治を続けている。
ルワンダは比較的成功したほうだが、それでも民主化とは程遠い。ルワンダ虐殺で80万人のツチ族が殺害されたが、ルワンダ愛国戦線は報復として「僅か」5万人を虐殺しただけだった。その上ルワンダはコンゴに越境攻撃をかけ、追加で20万人ほどの民間人を殺害している。これらの事実はジェノサイドを食い止めた功績とルワンダの著しい経済成長によって忘れられている。
1996年、ザイール
アフリカの脆弱国家でも特に悪名高いのはコンゴである。この国は建国以来まともな政権が存在した例がない。モブツの30年間の独裁でなんとかもっていたものの、地方では慢性的な紛争が起こっていた。
1996年にモブツが体調不良になると、次々と反乱軍が蜂起し、近隣諸国も介入してモブツ政権は崩壊した。しかし、反乱軍はいつものように仲間割れを起こし、近隣諸国の介入によってアフリカ大戦と呼ばれる大戦争に発展し、500万人が死亡したらしい。現在もコンゴ東部は無数の武装勢力が跳梁跋扈している。
2011年、リビア
2011年のアラブの春でリビアでは東部を中心に反政府蜂起が勃発した。半年間の内戦でカダフィ大佐による独裁政権は崩壊し、リビアは民主化を迎えたかのように思えた。
しかし、実際は2013年からリビアは二度目の内戦を迎え、現在に至るまで統一政府が誕生していない。いつもの展開である。
2013年、中央アフリカ
中央アフリカでは2013年に反政府軍が首都を攻略し、新たな政権が生まれた。特に説明は不要だと思うが、反乱軍はすぐさま四分五裂し、新たな内戦が(ry
まとめ
筆者が思いつく限り、反乱軍が首都を攻略して勝者となったタイプの内戦を上げてみた。記事を読めばわかると思うが、民主化に繋がったタイプの内戦は一つたりとも存在しない。だいたいは権威主義政権が誕生するか、二度目の内戦が勃発するかである。民主化がされたとしても、それは二度目の内戦に各勢力が疲弊し、妥協して和平が進んだ場合である。アフガニスタンのように数十年も混乱が続く例もある。
「反乱型」で政府軍が勝利した場合は復興が進むケースが多い。主に権威主義政権が存続するか、和平合意で責任の所在が曖昧にされることが多いが、少なくとも極度の混乱に陥ることは比較的少ない。
一方、反体制側が勝った場合は予後が良くない。「戦国型」の第二次内戦に移行するケースが非常に多いのである。反体制派はどのように取り繕っても賊軍の延長線上であり、政府軍とちがって国内を統治するノウハウはないし、意見の統一すら存在していない事が多い。したがって民主化どころではなく、さらなる内戦の引き金となってしまう。
民主的な統治が得意な勢力と戦争に強い勢力が異なるという点も重要である。例えば戦争が激しくなると反乱軍は共産主義者やイスラム過激派のような、あまり民主的ではないとされる勢力がメインになってくる。過激派は戦意が旺盛であるため、戦争になると平時には発揮できないような強烈な影響力を発してくる。スペイン内戦の共和国軍はいつの間にか共産主義者に乗っ取られていたし、アフガニスタン内戦も強いのはイスラム過激派ばかりだった。
シリアも同様の展開を辿るだろう。ダマスカスを攻略した反体制派は遠からず仲間割れを始めるはずだ。クルド人中心のSDFとイスラム主義者のHTS、それにトルコの影響力が強い勢力など、分裂の火種はいくらでもある。旧政権残党も沿岸部を中心に武装勢力を結集して生き残りを図るだろう。シリアは当分群雄割拠の状態が続くかもしれない。どれか特定の勢力が権力を独占するのは難しく、最終的には戦争に飽きた各勢力が共存を探るレバノンのような展開になるのではないかと思う。
アサド政権崩壊後の各勢力の関係については予想が難しいが、最終的には旧政権残党はクルド人勢力や西側と組んでスンニ派の勢力と相対するのではないか。そうなった場合はイランとイスラエルの関係も緩和するだろう。シリアとレバノンを失ったイランはもはやイスラエルと対立する動機が無くなってしまうからである。エルドアンが場当たり的な行動が目立つが、トルコがシリアの戦後秩序に大きな役割を果たすことは間違いなく、地域に勢力圏を拡大する第一歩となるかもしれない。イスラエルと断交するという話は全て人気取りとカモフラージュで、本当に狙っていたのはシリアということだろうか。
より大局的な見地で見るとロシアの勢力圏後退とトルコの勢力拡張というユーラシア規模の地政学的変動と考えることもできる。やがてトルコは中東で支配的な勢力となり、ロシアを圧倒し、西側と袂を分かつだろう。新たな同盟者として現れるのは中国だ。こうして中国とイスラム世界が同盟を組んで西側に対抗するという形で21世紀中盤以降のグローバルな勢力争いは進んでいくのではないかと思っている。