<地政学>無法国家、コンゴ民主共和国について考える
ここのところヨーロッパが続いていたので、今度は趣向を変えてアフリカへ行ってみよう。コンゴ民主共和国は複数のリクエストが入ったので書くことにした。
地政学といっても国や地域の性質によって分析の内容は変わってくる。日本やアメリカのような大国は国際政治や勢力均衡の枠組みで考えれば良い。一方で第三世界の国の場合は勢力均衡政策を取れるような立場にはなかった。これらの国は単に国力が弱いというだけではなく、国内が不安定で統一されていないのである。脆弱国家の国内政治はまるで国際政治のような様相を呈する。日本も室町時代はそうだったのだ。
コンゴ民主共和国はこうした脆弱国家の一つである。この国は有史以来まともに統一国家になったことがなく、未だに無数の勢力が相争っている。まるでバトルアリーナのような状態だ。コンゴ民主共和国はアフリカの中心ふで広大な領土と莫大な人口を持つが、国家としての体をなしていない。いわば近世ヨーロッパで言うところの神聖ローマ帝国のような状態なのである。
コンゴ民主共和国の地勢
コンゴ民主共和国はアフリカの中央部に広大な領域を占めている。その面積は日本よりも遥かに広く、アフリカの中でも二番目に広い。コンゴ民主共和国の人口は(まともな人口統計が存在しているかは怪しいが)一億人を越えており、しかも急速に増加している。見かけ上はアフリカでも有数の大国である。
コンゴ民主共和国を見ていると、領土の大半が内陸部に存在し、外洋とは細い回廊地帯で繋がっているだけだ。しかし、コンゴの地勢を見たままで解釈するのは間違いである。コンゴは果てしないジャングルであり、道路はろくに存在しない。コンゴの交通において重要なのは国名の由来にもなったコンゴ川だ。この川の流域面積は非常に広く、アマゾンに次いで二番目に広いと言う。コンゴ民主共和国は長江やドナウ川に匹敵する世界有数の河川交通によって構成されているのである。
コンゴ民主共和国の長所は豊かな鉱産資源だ。国土が広大なこともあって、コバルトをはじめとした数々の天然資源を算出する。多くは鉱石である。マテリアルとしては世界でもかなり資源に恵まれている方だろう。コンゴの経済はほぼ鉱産資源の輸出で支えられている。アフリカにありがちなモノカルチャー経済である。これは鉱業以外の輸出産業が存在しないことも原因だ。
コンゴ民主共和国で注意が必要なのはコンゴ共和国という国が存在することだ。両国は同じコンゴ川に面する国であり、首都のキンシャサとブラザビルは川の両岸で向かい合っている。こんな国は珍しい。コンゴ民主共和国はベルギー領、コンゴ共和国はフランス領で、植民地時代の線引きが現在も残っている。
コンゴ民主共和国は豊かな国土と水系を持っており、本来は恵まれた地形のハズだ。しかし、実情は大きく異なる。コンゴ民主共和国は豊かどころか、世界でも最悪の破綻国家だ。コンゴという国は「黄金の上に座る乞食」とも言える(実際アフリカ国家は開発援助を着服しがちだ)。こうした貧相なパフォーマンスは一体どこからやってくるのだろうか。この国の歴史を紐解いていこう。
コンゴの血塗られた歴史
コンゴ民主共和国の歴史は血塗られている。世界の主権国家の中ではここまでひどい例はあまりないだろう。ハイチとか、ウクライナとか、そういうレベルである。というか、主権国家なのかすら怪しい。
まず大前提として、アフリカという地域がユーラシアと比べて圧倒的に遅れた地域であるという認識を共有する必要がある。ジャレド・ダイアモンドが論じている通りであるが、大陸のサイズ等の関係でユーラシアの文明の進化の速度は他の大陸よりも遥かに早かった。外来生物と在来種の関係にも近い。アフリカはサイズが小さいばかりか、熱帯気候で開発が阻害されたこともあって、近世の時点ではようやく国家の形成段階という地域がほとんどだった。具体的な年数は出せないが、ユーラシアに比べて2000年とか3000年といったレベルで遅れていたことは確かだ。ただ、新大陸と違ってアフリカがコンキスタドールに征服されることは無かった。主に熱帯気候と熱帯病が原因である。
もともと、この地域にはコンゴ王国という国が存在した。コンゴ王国は大航海時代にポルトガルとの貿易で栄え、強力な支配体制を地域に構築した。こういうと聞こえが良いが、その実態は現代的な感覚では許されざるものだ。ポルトガル人はコンゴ人に銃火器を輸出し、その威力でコンゴ人は侵略戦争を行って奴隷を輸出した。銃火器と奴隷の貿易はコンゴのみならず、アフリカ全域で見られた現象だった。アフリカはあまりにも文明が遅れていたので、人間しか売るものが無かったということだ。コンゴ王国は奴隷輸出国の中でも筆頭で、新大陸の黒人の多くは西アフリカかコンゴ周辺の出身らしい。
アフリカの植民地化は進まなかった。新大陸に大規模な征服と入植が行われたのに対し、アフリカへの進出は貿易と沿岸部の限定的な支配がメインだった。熱帯気候と熱帯病のコストがあまりにも高かったからだ。この構図は現代に至るまで続いている。しかし、19世紀も後半になってくると、ヨーロッパの植民地主義が全盛期を迎える。こうなると、今まで暗黒大陸と呼ばれたアフリカも列強の分割の対象となる。コストが見合っていたかは怪しいが、当時の早いもの勝ちの世相もあって、分割だけは行われた。
このアフリカ分割の先鞭をつけたのがベルギー王レオポルド2世である。彼はスタンレーの探検報告を受けてコンゴ川流域の将来性を見込み、植民地化に着手した。こうして生まれたのが大植民地の「コンゴ自由国」だ。しばしば誤解されるのだが、コンゴ自由国はベルギーの植民地というよりもレオポルド2世の私有地に近かった。本国では立憲君主だったレオポルド2世だが、コンゴ自由国では専制君主そのものだった。コンゴ自由国でゴムの採取が行われ、この地域は過酷な搾取に直面することになる。
コンゴ自由国はしばしば国名がネタにされるのだが、本当に実体は悲惨だった。ゴムの採取のノルマが達成できない人間は腕を切り落とされた。レオポルド2世の植民地化によって今後の人口は半分になったとも言われる。犠牲者にして数百万は下らないだろう。コンゴ自由国とはレオポルド2世が自由に搾取できる国という意味だったのだろうか。コンゴ自由国の悲惨な実体が知られるに連れ、ヨーロッパの世論は批判的になった。植民地全盛期とはいえ、コンゴで起きていたことは異常だったのだ。コンラート・ローレンツの「闇の奥」という小説で当時のコンゴ自由国の雰囲気が描かれている。この作品は後にベトナムに舞台を変更し、「地獄の黙示録」というタイトルで映画化された。
国際的批判を受けてベルギー議会はレオポルド2世からコンゴを没収し、ベルギー領コンゴが1908年に成立した。これでようやく普通の植民地になったというわけだ。第二次世界大戦後までコンゴはベルギーの植民地として過ごすことになる。鉱産資源が豊富だったのは当時からで、広島に投下された原爆のウラン鉱石はベルギー領コンゴで産出されている。
第二次世界大戦後の脱植民地化の流れを受けて、ベルギー領コンゴも独立を選ぶ。しかし、コンゴに限ったことではないが、国造りは困難を極めた。高等教育を受けた人間は少なかったし、国民意識も統治体制も存在しなかったのである。
コンゴ民主共和国は独立と同時にいきなり内戦に突入する。これがいわゆるコンゴ動乱だ。コンゴ動乱の経緯は近代国家の戦争というよりは観応の擾乱を彷彿とさせる。動乱の原因はベルギーの支援を受けて南西部のカタンガ州が指導者のチョンべの下で独立を宣言したことだ。すぐさま政府軍は鎮圧に向かうが、肝心な政府がカサブブ大統領とルムンバ首相の間で割れていた。前者は西側寄り、後者は東側寄りだ。ルムンバは拘束され、チョンべに引き渡されて殺害された。ルムンバの支持者は黙っておらず、北東部で大規模な反乱を起こした。首都の政府軍・北東部のルムンバ派残党、・南東部のカタンガ州という三つ巴だ。
国連軍が介入し、カタンガ州の独立は潰されてしまう。指導者のチョンべは亡命した。この際に国連事務総長のハマーショルドは死亡した。残るルムンバ派残党の掃討は困難を極め、国土は二分割された。困った中央政府は驚くべきことにチョンべを呼び戻して首相に任命し、事態の収集を図った。中央政府はなんとか北東部の反乱を鎮圧するが、散発的な反乱は続いた。最終的に参謀総長のモブツがクーデターを起こし、チョンべは追放され、モブツが新たな独裁者となった。なんとか「天下統一」である。
なんとかモブツの専制政治の下でコンゴは30年に渡って存続した。この時代はコンゴはザイールという名前を名乗っている。モブツは西側寄りだったので、西側としても付き合いやすい相手だった。モブツはとてつもない腐敗政治家だったが、目をつぶっていた。ただし、この間も反乱は起こっていた。南東部では「シャバの反乱」が発生し、毛沢東主義者によって二度に渡って内戦が発生した。
1990年代に入ると高齢化と冷戦終結でモブツ政権は不安定化し始める。もともと大した安定ではなかったが、ついに反乱が起き始めた。別名「アフリカ大戦」と呼ばれる大戦争だ。
原因となったのは隣国ルワンダで発生した虐殺だ。ルワンダ紛争の経緯について語ると長くなるので別の機会にするが、虐殺政権を軍事的に打倒したルワンダ愛国戦線は旧政権の残党を追いかけてコンゴ東部に軍事介入を始めた。ルワンダとウガンダは東部で反乱勢力と手を組み、モブツ政権の打倒に取り掛かった。ここにアンゴラが参戦したことで一気に反乱側に有利になり、首都キンシャサが陥落して5ヶ月でモブツ政権は崩壊した。ここまでが第一次コンゴ戦争である。
反乱側の棟梁として担がれたのは毛沢東主義者のローラン・カビラだった。チェ・ゲバラがコンゴで訓練したゲリラの生き残りだ。カビラは外国のお陰で首都に入場して主となったが、すぐにルワンダ・ウガンダと決別した。起こった両国は再びコンゴ東部に侵攻し、現地の反乱勢力を支援した。政府側に立って今度はアンゴラやジンバブエが介入し、第二次コンゴ戦争が勃発した。最終的に10カ国が介入するアフリカ最大の戦争である。戦争で死亡した人数は500万人とも言われる。
アフリカ大戦は英仏百年戦争と似たところがある。近代の国家間戦争ではなく、近代以前の戦争なのだ。コンゴという国は統一国家ではなく、相争う複数の勢力が同居する中世国家に近いのである。イングランドがフランスの諸侯を味方に付けて大陸に介入したように、ルワンダもコンゴに大規模な介入を行ったわけだ。シリア内戦も近いが、シリアの場合はもう少しイデオロギー色があるし、地域の勢力均衡と深く絡んでいる。
第二次コンゴ戦争は2003年に終結したということになっているが、実際はコンゴ東部は未だに多数の反乱勢力が割拠する無政府状態の地である。ローラン・カビラは暗殺され、息子のジョセフ・カビラが新たな独裁者となった。ジョセフは反政府デモを受けて2018年にあっさり退任する。意外に平和的な幕引きだった。
東部の反乱は現在も続いている。裏で糸を引いているのはルワンダだ。ルワンダはM23をはじめとした武装勢力を訓練し、コンゴ東部に勝手に支配領域を築いている。コンゴの中央政府は弱体であり、ルワンダの軍事力に到底かなわない。ルワンダ軍によってアフリカ大戦の際には20万人以上のフツ族が殺害されたとも言われる。ルワンダの現政権はジェノサイド阻止というポリコレカードを持っているので国際社会から批判されることはない。
脆弱過ぎる国家
これまでの歴史を見てもらえば分かるように、コンゴは一度たりともまともな国家として機能したことがない。独裁者は存在しても、国際的に承認された地方領主のようなふるまいだ。アフリカの後進性は常に議論の対象となるが、コンゴ民主共和国という国はアフリカの特徴が強く出ていると見て間違いない。
コンゴは独裁政権かもしれないが、そのスタイルは中国やソ連とは真逆だ。独裁者は首都と輸出用の鉱山を抑えているだけで、後は何もできない。その他の地域は単純に放置されている。統治が及ばないとなると、彼らの中から勝手に「国家もどき」を作る人間が出てくる。これが武装勢力だ。
特にコンゴは国土が広大な上に陸上交通が難しいので、国家の大部分に中央政府が十分な権力を行使できない。アフリカが発展しないのは独裁者が悪い政治を行っているからだという見解があるが、問題は独裁者が強すぎることではなく、弱すぎることなのである。
アジアの専制国家は国土の隅々まで支配体制を作り上げ、徴税によって歳入を得ている。したがって、アジアの専制国家にとってはインフラを整備し、国民を豊かにすることが重要な利益になった。アフリカの独裁者は植民地時代のモノカルチャー経済の利益で歳入を得ており、国民はどうでもいい存在だ。言ってしまえば有害鳥獣に近い。コンゴはこの構図がかなり極端に出ていると言えるだろう。隣国のルワンダは国土の隅々まで目を光らせる強力な権威主義政権が存在するため、コンゴよりも遥かに強力な国家となっている。
現在もコンゴ東部は反乱勢力に支配されている。この地域はキンシャサの中央政府よりもルワンダからの方が遥かに距離が近い。しばしば和平が結ばれ、武装勢力が国軍に編入されたりもするが、往々にしてルワンダの息がかかっている。中にはルワンダ軍の将軍がコンゴ軍の将軍でもあるという意味不明な事態も起きている。
今後のコンゴが(駄洒落ではない)近代国家へと成長するには、中国が始皇帝時代に達成し、フランスがヴァロワ朝時代に達成したことを行わなければならない。統一国家の形成だ。その過程でルワンダとの対決は避けて通れないだろう。コンゴの人口と資源は多いが、統一国家でない以上、あまり意味がない。むしろ争いを長引かせるだけだ。
まとめ
アフリカという地域の地政学はヨーロッパとは大きく異なる。地政学的単位となる統一国家そのものがあまり存在しないからだ。アフリカの考察は近代国家というより、むしろ中世ヨーロッパに類似する。一応国家という建前は存在するが、実体は無数の諸侯による寄り合い所帯であり、定期的に内戦が勃発する。アフリカはこれから長い時間を掛けて国民国家が形成されていくだろう。もちろん流血は避けられない。
コンゴもそうしたアフリカ国家の一つだ。コンゴはアフリカの中でも深刻な低開発状態にあり、国土のほとんどに陸路で到達困難だ。ここまで交通が不便な国は世界にも存在しないのではないか。したがって東部を中心に多くの武装勢力が割拠しており、無法地帯となっている。建国当初に内戦が勃発したことも運が悪かった。
予断だが、今だに世界で大量の犠牲者を出している感染症のAIDSはベルギー領コンゴに起源があると言われる。コンゴ川流域の誰かが第一感染者になり、そのままコンゴ川を下って首都キンシャサに向かったようだ。当時のベルギーは熱帯病の予防のために予防接種を行っていたが、注射針を使いまわしていたため、AIDSが一気に広まったとも言われる。1950年代にキンシャサでAIDSが流行し始めたが、当事者はその正体に全く気が付かなかったようだ。1960年代にコンゴ動乱が勃発すると出稼ぎに来ていたハイチ人が帰国し、ハイチ国内にAIDSが広まった。そこから売血あるいは売春ツアーによってアメリカの同性愛者のコミュニティに持ち込まれ、1980年代のAIDS流行に繋がったとのことだ。