忘れられたシリア内戦12年史について徹底解説する
2011年の民主化デモに始まり、今も継続しているのがシリア内戦だ。最近はガザ戦争によってすっかり忘れられているが、以前として深刻な状態が続いていることは間違いない。シリア内戦は近現代の中東において二番目に大きい戦争だった。12年間の戦争でシリアでは少なくとも50万人以上が殺害されたと推計されている。シリア内戦と言われているが、実際はシリア国外からの勢力が多数介入しており、シリアは中東の国際紛争によって引き裂かれてしまった。現在もシリアは4カ国による強い影響下にあり、いつ紛争が再燃してもおかしくない。
今回は複雑なシリア内戦をなるべく分かりやすく、一本の記事で解説することを目的として執筆した。
半世紀以上に渡って君臨するアサド王朝
シリアは1970年のクーデター以降、アサド一族による独裁支配下にある。その支配は半世紀を超え、今後も続くことは確実だ。北朝鮮の金王朝と並ぶ世襲独裁政権となり始めている。
シリアは元々フランスの植民地だったが、1944年に独立国となった。シリアは歴史の古い国で、首都のダマスカスは世界最古の都市とされている。シリアの独立後は非常に不安定であり、なんと11回ものクーデターが発生している。隣国イスラエルとの仲も悪く、4回も交戦している。特に第三次中東戦争でゴラン高原を奪われたのは屈辱であり、今もシリアはイスラエルにゴラン高原の返還を求めて定期的に砲弾を打ち込んでいる。
1970年、シリアにとって最後になったクーデターで政権を手にしたのが空軍大将のハーフェズ・アル=アサドだ。彼は見事な政治手腕でシリア国内に独裁体制を作り上げた。
1973年にイスラエルとの戦争に敗北しても、政権は揺るがなかった。エジプトがイスラエルと平和条約を結ぶと、シリアはアラブ世界で孤立化した。1979年にイラン革命が発生するとイランとシリアは同じ反米テロ支援国家として友好関係を結んだ。イランの原理主義を利用し、シリアは隣国のレバノンに介入する。この時イスラエルと戦争になるが、色々合ってシリアはレバノンでの行動の自由を得る。シリアがレバノンに影響力を及ぼす道具として作り上げたのが世界最強のテロ組織であるヒズボラだ。ヒズボラは1983年に米仏軍の兵舎に自爆テロを仕掛け300人を殺害し、国連軍をレバノンから撤退させることに成功した。他にもヒズボラは数々の大規模なテロを実行し続けた。
内政でも混乱は続いた。1982年にシリア中部の都市のハマでムスリム同胞団のシンパが蜂起を起こす。エジプトと違ってシリアはこのようなイスラム主義勢力を認める気はなく、すぐさま鎮圧部隊を送って大虐殺を行った。その数2万人とも3万人とも言われている。その少し後に今度は弟のリファート副大統領が兄に対し反乱を起こし、シリアは内戦寸前になるも、なんとか若い。その後、リファートは国外に追放されている。
2000年にハーフェズが死ぬと、後継者問題が発生する。ハーフェズには5人の子供がいた。長男のバシールは後継者候補だったが交通事故で死亡、次男のバッシャールはロンドンで眼科医をやっていたが、呼び戻されて後継者にされた。バッシャールは心優しい性格で、独裁者には向かないと言われていたが、そうはいってはいられない事情があるのだ。三男は病気がちで、亡くなってしまったらしい。四男のマーヘルは共和国防衛隊を率い、兄の腹心である。長女の夫はシャウカトはシリア軍副参謀長だったが、アルカイダ系と思われる自爆テロで殺害される。
シリアの民族構成とイデオロギー
バッシャールの統治は基本的に父親の延長だった。シリアの与党はアラブ社会主義バース党だ。この政党は冷戦時代に流行った左派政権であり、基本的にアラブ民族主義と世俗主義を掲げている。従ってイスラム原理主義とは敵対的だ。アサド一族は少数宗派のアラウィー派の出身で、政権内部にアラウィー派の派閥を作り上げた。これがしばしばアサド政権がアラウィー派の政権と言われる要因である。ただし、自分の地域の出身者を贔屓するのは宗派に限らず一般的であり、バース党がアラウィ派のための政党だとか、アラウィー派の教義を実現するためにある政党だということはない。バース党は分裂しがちなシリアの各グループを統合することが理念であり、スンニ派やその他の宗派が差別されているわけではない。
シリアの民族構成を考えてみよう。9割がアラブ人、1割がクルド人だ。クルド人はトルコでもイラクでも独立闘争を起こしており、政治的に独立していることが多い。アラブ人の中にも宗派の違いがある。1割はアラウィー派であり、アサド政権の母体だ。1割はキリスト教徒である。1割はドルーズ派など、さらなるマイナー宗派だ。残りはイスラム教スンニ派である。ざっくりいうと、マジョリティのスンニ派が6割、アラウィー派・キリスト教徒・クルド人・その他が一割ずつである。
政治的な振る舞いを考えてみよう。バース党は先述の通り宗派で人を差別しない世俗主義政権であるため、マイノリティのアラウィ派とキリスト教徒からの支持が強い。これにスンニ派のエリート層や世俗主義者を加えた人口の三割ほどがアサド政権の「岩盤支持層」と考えて良い。クルド人は独立路線で、2004年の暴動などでしばしば政権と衝突していた。反体制派の基盤となるのは残りのスンニ派の一般人で、ムスリム同胞団・アルカイダ・ISISといった団体は全てスンニ派の原理主義である。
国際関係を見てみよう。シリアは長年東側陣営の国で、ロシアと親しい。シリア国内には旧ソ連諸国以外で唯一ロシア軍の基地が存在する。もう一つの同盟国がイランで、レバノンのヒズボラも協力関係にある。一方でイスラエルはシリアの宿敵であり、トルコやヨルダンとも昔から仲が悪い。
2011年:アラブの春
これが2011年時点でのシリアの状況だった。この年はアラブの春が発生し、アラブ世界が途方もない混乱に襲われた時期である。エジプトとチュニジアでは反政府暴動が発生し、政権が倒れた。イエメンでも大統領が辞任し、国家が混乱状態になった。リビアではカダフィ大佐が辞任を拒否したため、内戦に陥った。
こうした国々に感化されて、シリアでも大規模な反政府暴動が発生した。南部の都市ダルアーではアサド政権をバカにする落書きをした少年が拷問され、大規模な反政府暴動が発生した。こうした暴動はホムスや北部の都市にもどんどん広がっていった。
アサド政権は徹底した弾圧で答えた。反政府でもには容赦なく機関銃が撃ち込まれ、数千人のデモ隊が殺害された。アサド政権が倒れる気配は見えなかった。シリアの政権は極めてアサド王朝による個人支配が強かった。エジプトやチュニジアは軍が独裁者に辞表を要求し、政権の座から引きずりおろしたが、シリアは軍が政権に忠実だった。イラクや北朝鮮には到底及ばないが、シリアの独裁政権はかなり締め付けが厳しく、無数の諜報機関が社会のあらゆる部分を監視してきた。エジプトや他のアラブ諸国と比べて遥かに残忍なシリアの政権に平和的に政権から降りるという選択肢はない。エジプトとチュニジアでは軍が民衆への発砲を拒否したが、シリアでは堂々とデモ隊を大量に射殺した。政権を倒すにはリビアと同じ方法を使う必要があった。
2012年:内戦激化
2011年の冬の時点で既にシリアは内戦状態が始まっていたが、戦闘の規模はまだ小さかった。金曜日の度にデモ隊が暴動を起こし、その度に治安機関が発砲するという光景が日常だった。だが、不満をためた民衆のエネルギーは爆発寸前であり、全国的な内戦はすぐそこに迫っていた。2012年の7月にはダマスカスのバース党本部でアルカイダと思われる自爆テロが発生し、アサドの義兄に当たるシャウカトの他、国防省・内相・諜報機関トップが死亡するという大惨事になった。
シリア内戦が激化したのは2012年の夏である。この時期に自由シリア軍が一斉蜂起を開始したからだ。自由シリア軍はシリア軍を脱走した兵士が作った反体制派の武装勢力だ。世俗主義を掲げていたため、西側のウケも良かった。ダマスカスやアレッポという主要都市で蜂起した反体制派はシリア国内の半分を「解放」することに成功した。しかし、それでもアサド政権は倒れなかった。主要都市で思いの外に反体制派への支持が広がらなかったことが原因だ。国民の三割を占める岩盤支持層はアサド政権が倒れたら自分たちがどんな目に合わされるかわからないと考え、政府側を支持した。シリア内戦の規模を考えると、この三割はかなり熱心だったと思われる。シリア政府軍のみならず、親政権民兵組織が多数結成され、シリアは激しい戦乱へと突入した。
ここでシリア内戦の基本的な戦況が決定された。アサド政権が抑えたのは首都ダマスカスとアラウィー派が多く住む北部海岸地帯だ。対する反体制派は北部のほとんどと、南部のダルアー付近を抑えた。ダマスカスとホムスの一部も反体制派が抑えたが、周囲をアサド政権に包囲されてしまった。両軍が市街地を二分したアレッポでは激しい戦闘が行われ、この戦争における最大の激戦地となった。シリア内戦の戦線は複雑極まりなく、あちこちの都市で激しい戦闘が行われた。基本的には北部戦線と南部戦線がメインだった。
2013年:反体制派の分裂とアルカイダ化
シリア内戦は長期化の様相を見せ始める。外国の支援が重要になり始めたのもこの辺りからだ。隣国のトルコは当初はアサド政権との関係を守ろうとしたが、反体制派の蜂起が大規模になると方針を変え、反体制派を堂々と支援するようになった。北部はトルコ国境から直接支援が受けられるため、反体制派にとって有利な場所となった。他にもシリアと敵対するサウジアラビアを始めとする湾岸諸国は反体制派に莫大な支援を行った。反体制派はこうした支援のお陰で戦いを続けることができた。
一方のアサド政権も負けず劣らず外国の支援を受けていた。シリアが崩壊すると困るのはロシア・イラン・レバノンのヒズボラだ。2013年辺りからイランは革命防衛隊の特殊部隊である「コッズ部隊」をシリアに派遣し始める。このリーダーとなったのは2020年に暗殺されたソレイマニ将軍だ。同時にレバノンからもヒズボラがアサド政権に援軍として参戦し始める。
この時期から目立ち始めるのが外国人戦闘員だ。多くはイスラム原理主義に感化されたジハード主義者だ。出身地はチュニジアやサウジアラビアが多かった。こうした外国人の影響で、反体制派の中には次第にイスラム主義勢力が拡大し始める。中東では珍しいことではないが、自由シリア軍のような欧米受けの良い世俗主義勢力は腐敗していて弱いことが多い。イスラム主義勢力は禁欲的で、誠実で、士気が高い事が多かった。こうした優位により、反体制派の中で次第にジハード主義者が増大していった。反体制派は無数の派閥に別れることになり、相互の衝突が絶えない状態になった。特に頭角を表したのはアルカイダ系の「ヌスラ戦線」だった。
更に複雑なのはクルド人の存在である。クルド人はこれ幸いとばかりに第三勢力として動き出した。通常人民防衛隊YPGと呼ばれる組織が主導し、北東部にクルド勢力の独自領土・通称ロジャヴァを作り上げた。クルド勢力は他の反体制派と違い、アサド政権との闘争にそこまで力を注がなかった。理由はいくつかあるが、トルコとの敵対が大きな要因だ。トルコは南部に住むクルド人の存在に頭を悩ませており、安全保障上の脅威としてクルド独立勢力を絶えず弾圧している。YPGはトルコの反体制派であるクルド労働者党PKKと関係が深く、トルコにとっては宿敵そのものだった。クルド勢力にとって反体制派を支援するトルコは敵だが、アサド政権にとってもトルコは長年の宿敵だ。両者には共通の敵がいるので、関係の緊密になる。
西側諸国はアサド政権による虐殺に反対し、2013年に軍事介入を試みる。アサド政権がサリンを使用したのが口実だ。しかし、イラク戦争の泥沼の記憶が新しく、この試みは中止となった。
2013年頃からシリア内戦は当事者の手を離れ、複雑な国際紛争へと変化ししていた。この時期になると2010年代の中東を特徴付けるイランとサウジアラビアの冷戦が本格化し始め、シリアは両陣営の代理戦争の場とされていた。サウジアラビアは反体制派に無尽蔵の支援を行ったが、問題はその使い先だった。
2014年:ISISの勃興
この時点でも十分複雑だったが、更にシリア内戦を複雑化させたのがISISの勃興である。ISISは元々イラクのアルカイダという名前の組織で、ヨルダンからイラクに侵入したザルカウィという男が創設した。イラク戦争で2006年頃に自爆テロを繰り返していた武装勢力の中心である。イラクのアルカイダは2005年に日本人青年を殺害したことでも知られる。イラクのアルカイダは一時期大人しくしていたが、2011年のシリア内戦の乗じて国境線を乗り越えてシリア国内に勢力を拡大した。今度はイラクのテロ組織が絡んできたことになる。シリア進出と同時にISISと名前を変えた彼らは野心的な計画を実行し始めた。
2014年の夏、ISISはイラクに一斉攻撃を掛け、イラク第二の都市のモスルを攻略する。イラクの中央部が軒並みISISによって占拠された。同時にシリア東部もISISによって支配され、「イスラム国」の領土とされた。ISISは反体制派にも攻撃を仕掛け、三つ巴の戦いが行われた。ついにシリア内戦がイラク戦争とリンクすることになったのである。
ISISの拡大によって劇的に変化したのが西側の立場だ。西側諸国は本来は反体制派寄りの立場だったのだが、そうも言っていられなくなってきたのだ。西側は反体制派の一部を支援しながら、一部と敵対するような状態になった。シリアに限ったことではないが、イスラム教スンニ派の勢力を応援すると、一定数が必ずジハード主義者となって襲いかかってくるのである。シリア反体制派がジハード主義者に乗っ取られる懸念は当初から存在したが、現実となった。反体制派の中核はアルカイダ系のヌスラ戦線となっており、到底西側に好意的とは言えなくなっていた。なお、ヌスラ戦線はISISと敵対状態にあり、ISISがテロを起こす度にアルカイダ指導者のザワヒリは残虐なテロ行為を非難していた。
ISISを始めとするスンニ派のジハード主義者はアルカイダと異なる点があった。それはシーア派との闘争を重視している点だ。イラク国内はシーア派に支配されていたため、スンニ派のISISには一定の人気があったし、フセイン政権の残党も多数合流していた。シリアのアサド政権もアラウィー派中心の政権で、アラウィー派はシーア派の一部といいうことになっているので、ISISにとっては倒すべき敵だった。
となると、西側とアサド政権には共通の敵がいることになる。従ってISISの勃興以降、西側ではアサド政権容認の動きが強まった。アサド政権が倒れたらますますジハード主義者が栄えるのではないかという話である。
2015年:ロシア航空宇宙軍の参戦
2015年になっても激しい戦闘は続いていた。パリではISISによる同時多発テロが発生し、大勢の人間が殺されていた。ISISは世界人類の共通の敵という扱いを受け、西側が激しく空爆を加えていた。サウジアラビアはこれ以上ジハード主義者が増えるのを恐れ、シリアへの関与を縮小していった。
ISISとの戦いで西側は当初頼りにしていたのは自由シリア軍だ。彼らは西側にとって付き合いやすい世俗主義者だったからだ。しかし、程なくして彼らが無能であることが判明した。反体制派に渡したはずの武器はISISやヌスラ戦線に流れていたことが判明し、西側の支援は再考されることになった。そもそも反体制派はアサド政権との戦いで手一杯であり、ISISと戦う気はなかった。
代わって西側の頼みの綱となったのはクルド人勢力である。彼らの中心となっていたYPGはクルド労働者党の影響を受けており、共産主義者だ。従ってISISとは激しい敵対関係にある。クルド人勢力はイラクのクルディスタン地域でもISISと戦っており、西側にとっては頼もしい戦力だ。シリア東部でアメリカの航空支援を受けてクルド人はISISと懸命な戦いを続けていた。クルド人女性兵士の存在がクローズアップされたのもこの時期である。女性兵士が大量に存在している事自体がクルド人勢力のリベラル性の証であろう。
それ以上にシリア内戦の帰趨に影響を与えたのがロシアの本格介入だ。反体制派は2015年の夏に一斉攻撃を開始し、アサド政権は崩壊寸前という報道がなされた。イドリブも陥落している。ロシアはシリアを失うわけにはいかない。2015年の9月にロシア航空宇宙軍がシリア内戦に参戦し、ありとあらゆる反体制派を焼き尽くすようになった。
2016年:アレッポ奪還
この時期はアサド政権の優位が確定し始めた時期だ。ロシア軍の圧倒的な火力で反体制派は打撃を受け、一気にアサド政権が有利になっていった。2016年に国際社会はISISとヌスラ戦線を除いたシリアの停戦を画策したが、うまくいかなかった。ロシア軍は反体制派をジハード主義者として空爆を続け、これは実態と遠くはなかったため、一定の説得力があった。2016年にはついにアサド政権がアレッポを奪還し、政府軍の優位が確定した。
この時期に深刻化した問題が難民である。シリア難民は600万人を超え、第二次世界大戦後最大の難民排出国となった。シリア難民の多くはトルコとレバノンに逃れたが、とっくにキャパオーバーとなっており、一部が大挙してドイツに流れていった。
シリア内戦では数々の残虐行為が行われた。ロシア軍やISISの犯行も多かったが、犠牲者のほとんどはアサド政権によるものである。アサド政権は反体制派を大量に拷問し、一節には8万人の死者を出したと言われている。この大量拷問に関与したシリア諜報機関の幹部はドイツで終身刑になっている。シリア空軍は民間人の居住地にも平気で空爆を行い、多数の死者を出した。ロシア空軍の非ではない。
また、2016年にはロシアの介入に反対してトルコのロシア大使がカメラの前で警備員に殺害される事件も起きた。ロシア軍機がトルコ軍に撃墜される事件も発生し、一時期両国関係が緊張したが、程なくして関係は正常化された。
2017年〜2018年:アサド政権の勝利
アレッポ奪還に続き、アサド政権は次々と国土を奪還していった。ホムスやダマスカスで包囲されていた反体制派は降伏し、安全を保証された状態で北部の反体制派支配地域に移送されていった。南部戦線では非常に激しい戦闘が続いていたが、ついに2018年に南部の反体制派も戦闘を中止して、北部の逃れていった。
この時期になるとISISはすっかり下火になっていた。2017年についにイラク政府軍がモスルを奪還し、ISISの自称国家は大きく領域を減らしていった。西側はISISのシリア側にも打撃を食らわせるため、クルド人勢力を中心とするシリア民主軍を結成した。シリア民主軍はISISの首都だったラッカを攻略し、ISISを滅亡させた。同時に3年もの間ISISに周囲を取り囲まれていたデリゾールにアサド政権軍が到達し、包囲を解除した。これまでISISが支配していたシリア東部の砂漠地帯はクルド人勢力の領地となった。彼らは親米だったが、同時にアサド政権とも協調関係にあり、共同で国境警備を行っていた。アラブ人の多い地域はアサド政権による統治が認められた。
この時期はシリア内戦の戦闘が一気に下火になり、シリアの国土分割が鮮明になった。反体制派の支配領域は北西部のイドリブ県の周囲に限られ、トルコの保護下にあった。トルコ軍は自らも南進しており、シリアの北西部の一角を占領していた。ここは以前はクルド人勢力が支配していた部分である。シリア北東部の砂漠地帯はトルコ軍と退治するクルド人勢力の領地となり、域内には米軍が駐留していた。残りは全てアサド政権の支配下に戻った。北西部・東部・それ以外の三地域にシリアは分断されたことになる。
また、これまでイスラエルはシリア内戦に大して沈黙を守ってきた。イスラエルが関与すると余計な抗議行動が起こりかねないからだ。しかし、シリア内戦でアサド政権が優位になるにつれ、シリア国内で活動するイランの息がかかった勢力が無視できなくなってきた。イランは革命防衛隊やイラクやアフガンのシーア派民兵組織を大量にシリアに送り込んでいる。これらの勢力がヒズボラと結びついてイスラエルへの攻撃を企てたら大変だ。イスラエルは散発的にシリアに介入し、これらのシリアの民兵を空爆していた。イランはイラク・シリア・レバノンまで至るシーア派ベルト地帯を作り上げており、かつてないほどに勢力を拡大している。
アサド政権が勝利した理由はいくつかある。思いの外に強固な体制支持派が存在したこと。ロシアとイランが政権側を全面的に支援したこと、ジハード主義者の勢力拡大で西側の立場が変わり、アサド政権容認の方向に動いたこと、などが挙げられるだろう。
2019〜現在:膠着状態
2019年以降、シリアの情勢は殆ど動いていない。戦闘は2019年を境にかなり穏やかになった。シリア国内では戦争よりも復興に目を向ける人が増えた。アサド政権の打倒を考える人は殆どおらず、アサド政権の勝利という現実を受け入れて生きる人が増えた。これまで国交断絶状態にあったアラブ諸国も、シリアとの関係改善に走り、シリアはアラブ連盟に復帰した。アメリカはシーザー法という法律で虐殺を犯したアサド政権に厳しい制裁を加えているが、シリア市民の人権を守るための法律がシリア市民を苦しめているという指摘もある。
ISISは2019年に最後の拠点が陥落し、単なるテロ組織に戻った。首謀者のバグダディも2019年に米軍の特殊部隊により暗殺された。クルド人勢力はISISの戦闘員を大量に刑務所に収容しているが、どこの国にも引き取り手がなく、困り果てている。
シリア人はもはや戦争に疲れ果てており、シリア内戦は外国軍による国家分割という様相を呈している。具体的にはロシア・イラン・トルコ・アメリカの四カ国だ。アサド政権支配地域の制空権はロシアが握っており、イランも大量の民兵をシリアに送っている。対する北部はトルコ軍の占領地が広がっている。北西部には反体制派が陣取っているが、実質的にトルコ軍の保護下だ。北東部はクルド人勢力が陣取っており、米軍と協力関係にある。米軍は南西部にも基地を置いている。理由はイランに対する嫌がらせだ。
現在でも三者の間には散発的に戦闘が起きている。同盟関係から見ると矛盾している戦闘が多い。アサド政権とクルド人は協力関係にあるにも関わらず、米軍はイランの民兵を空爆している。西側とトルコは同盟関係にあるにも関わらず、トルコ軍はクルド人に砲撃を繰り返している。多種多様な勢力が多種多様な利害を抱えており、シリアの統一は未だに実現していない。
シリア内戦が複雑な理由
筆者は無類の世界史マニアだが、近現代の紛争で最も複雑なものは何かと聞かれれば、迷わず「シリア内戦・レバノン内戦・パレスチナ紛争」の3つだと答えたい。この地域は聖書の時代から歴史が続き、大変複雑な政治情勢だ。シリア内戦は本当にややこしいし、理解している人間はほとんどいないだろう。
シリア内戦は対立軸が複数存在し、それぞれが複雑に交錯している。これが難解さの理由でもある。シリア内戦の対立軸を簡素化すると、
①アサド政権 VS 反体制派
②西側諸国 VS ISIS
③トルコ VS クルド
④イラン VS イスラエル
この4つの対立軸が見え隠れするだろう。こんな紛争はシリア内戦だけだ。
圧倒的に戦闘規模が大きいのは①だ。シリア内戦の主軸である。アサド政権と反体制派の戦いでは沢山の犠牲が出た。ロシア・イラン・ヒズボラがアサド政権側に立って参戦し、トルコと湾岸諸国が反体制派を支援した。
②は国際的に注目を浴びた対立軸だ。反体制派の一部だったISISが暴走し、勝手に欧米に向けてテロ行為を始めたことが原因である。西側はアサド政権と対立しながら反体制派の一部とも戦うという複雑な状況になった。本来イラン・シリアと戦う味方であるはずのスンニ派からテロ分子が出てしまうというおなじみの展開だ。
③は上2つに比べて地味だが、問題を更に引っ掻き回している。トルコはクルド勢力と対立しているため、ISISの討伐に後ろ向きだった。この点で西側とトルコは正反対の立場を取っている。西側はISISを倒すためにクルド人勢力を支援し、クルド人勢力はシリア北東部を支配する強大な勢力となった。トルコはクルド人勢力をPKKと同一視しており、ISISと同じくらい危険な勢力だと考えている。実際、ISISと同様にPKKも大規模なテロを繰り返している。
④は副次的だが、今後重要になって来る争点だろう。イスラエルは基本的にアサド政権と反体制派の戦いには中立だ。しかし、イスラエルはイランの息のかかった勢力がシリアに多数侵入するのを懸念しており、散発的に空爆を加えてきた。アメリカも最近はこの点を問題視しており、シリア国内に拠点を置いている。2023年のイスラエル・ハマス戦争で両者の緊張は増すことが予想される。シリアを舞台にした何らかの代理戦争が行われても不思議ではない。
今後のシリア
今後のシリアはどうなっていくのか。シリア内戦の帰趨がアサド政権の逆転勝利で固まったことは間違いない。ただし、国土の北部はアサド政権は奪還できていないし、現状で再統一が可能とも思われない。
シリア北西部の反体制派支配地域はこのまま未承認国家となる可能性が高い。2014年から2022年までのウクライナ東部に似た感じである。仮に「北シリア」と呼ぼう。
普通の未承認国家は何らかの民族的実態に即していることが多い。例えば北キプロスはトルコ系住民が独立した結果出し、アブハジアやコソボもそうだ。しかし、北シリアの場合は民族的な理由で分裂したわけではなく、あくまで政治体制を巡る争いの結果である。したがって北シリアは未承認国家であると同時に分断国家という性質も持つだろう。台湾と同じだ。分断国家の場合、「国家」の基盤が政治的な支持のみになってしまうため、安定性はかなり低い。民族意識は長い間変化しないが、政党への支持は毎年のようにアップダウンする。数年で消えてしまう政党も珍しくない。
とはいえ北シリアが簡単に滅亡することはないだろう。背後にトルコがいるからだ。現に北シリアは反アサドのシリア人のシェルターのようになっており、まさに台湾のようだ。北シリアが滅亡すればアサド政権を恐れる住民が大量にトルコに流入してしまう。難民を持て余したトルコがアサド政権を侵略する可能性すらある。分断国家は必ずパトロンが存在し、シリアも例外ではない。なお、西側は北シリアに対する関心を完全に失っているようである、北シリアの反体制派の中でも最も勢力が強いシャーム解放機構はヌスラ戦線が合併等を繰り返して誕生した組織で、起源をたどれば「シリアのアルカイダ」に行き着いてしまう。国際テロは止めているが、到底西側が組める存在ではない。
シリア北東部のクルド地域、通称「ロジャヴァ」の運命は不透明だ。トルコは大軍でロジャヴァを狙っており、現在も日常的にトルコ軍による攻撃が続いている。いつ全面侵攻が行われてもおかしくない。ロジャヴァが存続しているのはアメリカの保護があるからだ。クルド人勢力はISISを掃討するうえで有用だったし、シリア北東部に拠点を置いてイランににらみを効かせることができる。ただし、アメリカが見放した場合、先行きは暗い。アサド政権とロジャヴァの関係は友好的だが、アサド政権にとって彼らは反乱軍であることに変わりはなく、保護は得られれないだろう。ロジャヴァの運命はトルコ軍に潰されるか、アサド政権に再回収されるかの二択だろう。ただし、イランの脅威が高まる現状ではアメリカがロジャヴァを見捨てるとは考えにくく、イスラエルにとっても彼らは頼りになる友好勢力なので、今後イランとイスラエルの対立が激化するにつれ、緊張が高まるだろう。
三つに分裂したシリアはロシア・イラン・トルコ・アメリカの4カ国によって分割支配されており、完全な膠着状態だ。2019年以来、ほとんど戦況が動かないのもこのことを示している。ISISも一応活動しているが、色々な勢力にとにかくテロを仕掛けまくる山賊のような存在に成り果てている。シリア人はもはや戦争に疲れ果てており、彼らの戦闘能力が情勢を左右することはない。もはやシリア情勢はシリア人の手を離れていると言っても過言ではない。それよりも重要なのがロシア・イラン・トルコ・アメリカの出方であり、ここに度々イスラエルも関与してくる。サウジアラビアは意欲を無くしているようだ。
アラブの冬
シリア内戦は元々2011年の民主化デモによって開始されたが、結果として民主化は完全に遠のいたと考えて良い。シリアを分割する三勢力はいずれも民主主義とはかけ離れている。アサド政権は戦争によって更に強権的になり、世界最悪の虐殺政権となった。反体制派のうち、欧米受けの良い世俗的な民主勢力は何処かへ消えてしまい、アルカイダ化してしまった。民主化運動の担い手から見ると革命がジハード主義者に乗っ取られたように感じるようだ。ただし、民主化を暴力によって成し遂げるというのは無理があり、内戦が始まった時点で民主化は頓挫していたのだろう。残るクルド人勢力の母体となったのはクルド労働者党・通称PKKだ。この団体は紛うこと無きテロ組織であり、トルコ国内で大規模なテロを繰り返している。シリア内戦を勝ち抜いた勢力はいずれも民主主義のかけらもないし、そうでないと内戦などできないだろう。民主主義と暴力がいかに相容れないかを示す悲惨な例となってしまっている。
実のところ、武装蜂起で民主化を成し遂げた国はほとんど存在しない。民主化を遂げている国は韓国やポーランドのように権威主義政権が次第に軟化し、デモ隊に譲歩するようになって、なし崩し的に民主化することがほとんどだ。デモ隊と政権の側に法的な信頼関係ができていくので、政権を手放しても大丈夫だろうとエリートは考えるようになるし、相互尊重と非暴力の原則も構築しやすい。シリアのように内戦になってしまうと、政権側は殺されまいと全力で民衆に発砲するし、反体制派も民主化勢力から武装ゲリラへと変貌してしまうから、どちらが勝っても民主化は遠ざかる。
アラブの春の民主化運動は完全に失敗した。エジプトは民主化から二年で軍事政権が復活した。バーレーンはサウジアラビアの戦車によって鎮圧された。イエメンとリビアは無政府状態になり、現在も国土は戦場となっている。唯一国がいい方向に行ったのはチュニジアだが、この国も強権体制へと近づいている。どうにもアラブ世界は不安定すぎて民主化どころでは無さそうだ。2011年の騒乱も民主化への一歩というよりは根深い政情不安の一環のようにも思えてくる。アラブの春によってアラブ世界はますます混迷を深め、宿敵のイランとイスラエルが強大化する羽目になった。
イランは2003年の米軍侵攻でフセイン政権が崩壊したことで漁夫の利を得たが、アラブの春でイラクとシリアが内戦状態になったことでますます勢力を伸ばすことができた。アサド政権は内戦に勝利するためにイランを頼ったし、イラクもISISを倒す上で親イラン民兵の力を借りる必要があった。イエメンのフーシ派もイランと同盟関係にある。
イランほどではないが、イスラエルはアラブの春で得したと思う。宿敵のシリアは弱体化し、レバノンのヒズボラはシリアへの介入と国内経済の悪化で手一杯、エジプトはシナイ半島の反乱に対処するためにイスラエルに頭が上がらなくなった。関係改善がされたとはいえ、ハマスとイランの関係も一時期は非常に悪かった。イスラエルにとってアラブ諸国は敵ではなく、すり寄ってくる従属国と成り始めている。
アラブ世界の弱体化により、中東はイラン・トルコ・イスラエルの三強状態にある。この三国志の争点となる地域の筆頭はシリアだろう。今後もシリアは大国政治のバトルアリーナと成り続けるのは確実だ。
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