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〈地政学〉中東の台風の目・ヨルダン〜何故ここだけ平和なの?〜

 久しぶりに地政学シリーズを書きたくなった。今回はヨルダンである。死海くらいしかネタのないこの国だが、一つ奇妙な特徴がある。周辺が戦争続きなのにここだけ異常に平和なのである。まるで台風の目のような状態だ。今回は中東の温かい心ことヨルダンについて解説したいと思う。

なぜか戦争が起きない国

 ヨルダンが位置する地域は一般に肥沃な三日月地帯と言われている地域である。ここは世界で最初に農耕文明が花開いたところであり、歴史が世界で最も古い。ダマスカスやジェリコといった都市はなんと一万年前からあるという話である。旧約聖書の舞台となったのも三日月地帯だ。

 現在でいうとイラク・シリア・トルコ南部・レバノン・イスラエル・ヨルダンが該当するだろう。

 しかし、この地域はその歴史の深さを反映してなのか、近代において極端に戦争が多い地域でもある。おそらく世界で最も政情が不安定な場所といっても過言ではないだろう。メジャーなものでもこれだけある。

パレスチナ紛争
四度の中東戦争
レバノン内戦
イラン・イラク戦争
クルド紛争
湾岸戦争
イラク戦争
シリア内戦
イラクIS戦争
2023年ガザ戦争

 マイナーなものを含めると数は当然更に増加するだろう。例えばシリアは独立以来9回のクーデターが成功している。イラクは王政が倒れてから10年の間に4回のクーデターが立て続けに起きた。その結果としてアサド政権とフセイン政権が誕生したが、どちらも既に崩壊している。

 世間一般のイメージでもこのあたりの国は常に戦争しているイメージなのではないか。しかもどの戦争も構図が複雑で、よほどのマニアでない限り全容は掴めないだろう。現在では殺人狂のように扱われているフセインやアサドも地域の複雑な事情を考えるとやむを得ないところがあった。実際にフセイン政権の崩壊でイラクは悲惨な状態になったし、アサド政権の崩壊もかなりの懸念を伴っている。

 しかし、ヨルダンだけは別だ。ヨルダンは建国以来政権が倒れたことはなく、未だに王政が続いている。建国から今までにヨルダンが巻き込まれた紛争は「わずか」3つである。1つ目は第一次中東戦争、2つ目は第三次中東戦争、3つ目は1970年の黒い9月事件(ヨルダン内戦)である。しかも3つとも短期間で終結した。肥沃な三日月地帯の基準ではあまりにも平和すぎるのである。

 この理由は一体何なのだろうか?

サイクス=ピコ体制の成立

 別の記事でも度々書いているが、改めてヨルダンの歴史について振り返りたい。

 肥沃な三日月地帯の歴史は非常に古いが、この地域の国家の歴史は比較的浅い。1918年までこの地域はオスマン帝国の完全な支配下にあった。オスマン帝国は中東の帝国というイメージがあるが、実際の重心は思われているよりも北に偏っており、イスタンブール周辺とバルカン半島でほとんどが完結していた。肥沃な三日月地帯はこの当時は対して経済的な価値がない後進地域と思われていた。

 第一次世界大戦の結果としてオスマン帝国が解体されると、肥沃な三日月地帯はいくつかの主権国家に分割された。ISISが「サイクス=ピコ体制」と読んでいたものである。その経緯はちょっと複雑であるが、なるべく簡潔に説明したい。

 第一次世界大戦中、イギリスはアラブ人の助けを必要としていた。アラブ人の民族運動に火をつければ、敵国のオスマン帝国を弱らせることができると考えていたからだ。そこで目をつけたのはメッカの太守だったハーシム家である。この家系はムハンマドからの直系で、アラブ人にとって君主になりうる家柄だった。明治維新で薩長が天皇に目をつけたのと同じである。イギリスはハーシム家に協力し、アラビアのロレンスを派遣して焚き付けた。

 戦後、ハーシム家にはアラブ全域を与えるという約束だったのだが、これはいろいろあって果たされなかった。ハーシム家の三兄弟のうち、長男はアラビア半島西岸のヒジャーズ王国を得た。次男はイラクをイギリスに与えられた。三男はトランスヨルダンの王家となった。このうちヒジャーズ王国は戦後すぐに内陸から攻めてきたサウード家との戦争に敗れ、消滅した。サウード家はサウジアラビア王国を打ち立て、イギリスはこれを承認した。イラクとヨルダンのハーシム家はそのまま存続し、独立を果たした。

 ヨルダンという国はこの地域の例に漏れず、イギリスが勝手に国境線を引いて作った国である。ヨルダンの北東部にある出っ張りはチャーチルのくしゃみと呼ばれている。国境線を引いていた当時の植民地大臣であるチャーチルがくしゃみをしたからこんな国境になったという都市伝説だ。ヨルダンはイギリスによって作られた極めて人工的な国であり、共通の歴史のようなものはなかった。イギリスはヨルダン川の向こう側とこちら側で国を分割することにした。向こう側は「トランスヨルダン」と言われてトランスヨルダン王国が作られた。長いので途中でヨルダン王国に改称された。地中海側は「シスヨルダン」と呼ばれていたが、この土地は宗教的に重要だったため、「パレスチナ」に改名され、ユダヤ人の入植が許可された。

 ヨルダンという国家は分裂している。王家であるハーシム家は外部からやってきたよそ者であり、生粋のヨルダン人と言えるのはこのときにハーシム家といっしょに移り住んできた部族である。実はハーシム家は肥沃の三日月地帯の住民ではなく、不毛のアラビア半島の人々だったのだ。しかし、そのことは致命的な軋轢にはならなかった。ヨルダンの人口密度が低かったことや、ハーシム家がサウード家よりも寛大だったことが理由だろう。それでも不安はあり、ヨルダン王政はコーカサスから移住してきたチェルケス人の近衛兵によって武装を固めている。

 しかし、地域の政情不安が原因でヨルダンの人口構成は大きく変容することになった。生粋のヨルダン人は人口の半分以下である。人口の多くを占めるのは隣国パレスチナから流入したパレスチナ難民である。ヨルダン王政はエジプトと違って彼らに市民権を与えることにしたので、彼らは法的にヨルダン国民となっている。さらに隣国からシリア難民が流入してきた。これらの影響により、ヨルダンは人口の大半が難民という奇妙な国家となっている。ヨルダンは内政上の理由でここのエスニック的対立を曖昧にしている。

ヨルダンの地理

 ヨルダンは見かけ上は中東地域の中央部に位置し、多くの国家と国境を接しているように見える。しかし、国境線はヨルダンの実態を必ずしも反映していない。ヨルダンは中央部どころか辺境の国であり、アラビア半島との境界に位置する国なのだ。

 ヨルダンの地理を見るとある事実に気づく。ヨルダンの可住地は北西部の一部に限られており、国土の大半は砂漠なのである。砂漠は自然の障壁としては突破しやすいので、ヨルダンはアフガンのような要塞国家とは言えない。しかし、それでも砂漠によって周辺地域から隔てられているため、見かけよりも孤立した地勢となっている。

 ヨルダンの南部国境沿いにはサウジアラビアとの国境がある。ここは果てしない砂漠地帯であり、サウジアラビアの人口密集地帯とも離れているので、ヨルダンがここの国境を脅かされることはない。サウジアラビアはイスラエルと国境を接することを嫌がっており、ヨルダンは緩衝地帯として必要な存在だ。

 東部国境にはイラクとの細い国境があるが、ここもまた通過困難である。ヨルダンとイラクは伝統的に親密で、両国は何度かこの国境を通して協力関係にあったことがある。湾岸戦争の制裁に苦しむイラクにヨルダンが密輸を手伝ったことは一例だ。しかし、ヨルダンの地政学に大きく影響を与えるような国境ではない。

 北の国境でシリアと接している。ここはまだ交流がある。シリアとヨルダンの関係は険悪で、1970年に一時シリアに軍事攻撃を受けそうになったことがある。それでもシリアの人口密集地域からは離れており、乾燥地域であることから、ヨルダンへの影響は軽微である。シリア内戦がイラクやレバノンに飛び火したのに対し、ヨルダンはほとんど巻き込まれなかった。ただし難民の移動は多かった。

 ヨルダンが肥沃な三日月地帯に位置しながら、それほど深刻な紛争に巻き込まれなかったのは、この国が砂漠によって孤立しているからだ。しかし、一箇所だけ例外がある。ヨルダンにとって極めて大きな影響を持つ国境は西部である。ここにはイスラエルおよびパレスチナが控える。ヨルダン国家の地政学的特徴はパレスチナ紛争に始まり、パレスチナ紛争に終わると言っても過言ではない。

ヨルダン川の三国志

 ヨルダン側の地中海側、すなわちシスヨルダンはトランスヨルダンとは違った特徴を持った土地だった。パレスチナと改称されたこの地域はヨルダンと違って農耕地帯であり、多数のアラブ人農民が居住していた。

 ここにユダヤ人がやってくる。ユダヤ人の間には故郷のパレスチナに移り住みたいという要望が昔から存在し、イギリス当局は根負けしてパレスチナへの移住を許可することにした。ヨーロッパから大量のユダヤ人が入植してきたことでこの地域には極めて深刻な民族対立が起きることになった。

 トランスヨルダンの心境は複雑だった。民族的・宗教的な観点ではヨルダンはパレスチナ人の肩を持つべきかもしれない。しかし、隣国の例に漏れず、パレスチナ人はヨルダンにとって隣国のライバルでもあった。ヨルダン王政はユダヤ人をパレスチナのアラブ人を抑えるための同盟者と見ていたフシがある。ユダヤ人の武装化は歓迎すべきことだった。

 第二次世界大戦後にパレスチナの民族対立はついに爆発し、アラブ人とユダヤ人の殺し合いになった。アラブ世界は介入を決断して第一次中東戦争が勃発する。ヨルダンはこの戦争で司令官の役割を努めた。しかし、そこには重大な欺瞞があった。ヨルダン王政はイスラエルとほんとうの意味で戦うつもりはなかったからである。ヨルダンは現在の西岸地区の相当する地域に侵攻し、自国領とした。メッカとメディナを失ったハーシム家にとって、エルサレムを奪取するというのは念願だったのかもしれない。

 アラブ諸国はヨルダンがパレスチナ全域を支配するのではないかと恐れて戦争に参加していた。実際、ヨルダンは全パレスチナの王を名乗っていた。アラブ諸国はユダヤ人をあまりに過小評価していたため、エジプトやシリアはヨルダンに取られる前に少しでもパレスチナの領土を奪い取ろうとした。両国にとって誤算だったのはイスラエルがものすごく強かったことであり、アラブ連合軍はあっけなく瓦解した。

 第一次中東戦争の勝者となったのは、独立を達成したイスラエルとエルサレムを獲得したヨルダンの二者だった。これほど奇妙な戦争はない。戦争前後にイスラエルとヨルダンは絶えず秘密交渉を繰り返していた。ヨルダンにとってはパレスチナや他のアラブ諸国のほうが脅威に思えたのだ。このあたりにもパレスチナ問題の奇妙な実態が浮かび上がる。世論と地政学的利益があまりにも乖離しているのである。

 第一次中東戦争の後にヨルダン国王はパレスチナ人によって暗殺された。イスラエルとの内通に憤ってである。ヨルダン王政は国内に大量のパレスチナ人を抱えることのリスクを身を持って知ることになった。

 続いてヨルダンが戦争に巻き込まれるのは第三次中東戦争である。こちらもパレスチナ紛争の特殊な性質が仇となった。ヨルダンはイスラエルと戦う気は無かったが、アラブ世界の圧力のためにやむを得ず参戦する羽目になった。王政としても苦渋の決断だったようだ。その結果、ヨルダンはイスラエルの奇襲攻撃を受け、西岸地区を失うことになった。ヨルダン軍はほとんど抵抗することがなかった。

 ヨルダンの領土は再び戦前のトランスヨルダンの領土に限られることになった。エルサレムを失ったのは損失だが、ヨルダンにとって西岸を失ったことは必ずしも悪いことではなかった。ヨルダンは国内に大量のパレスチナ人を抱えることを恐れていた。第三次中東戦争の後にイスラエルのアロン外相が西岸地区の部分的な変換を打診したが、ヨルダンは拒否した。

 続いてヨルダンにとって重大事件となったのは1970年の黒い9月事件である。国内のパレスチナ難民を糾合したPLOがヨルダン王政に反乱を起こしたのである。しかもシリアがこれを奇貨として北から進軍する気配を見せていた。ヨルダンが頼れる相手はイスラエルしかいなかった。ヨルダン王政はイスラエルの協力を得てPLOを鎮圧し、シリアを追い返した。パレスチナがヨルダンの敵であることが明らかになった瞬間だった。ヨルダンはPLOを追放し、レバノンへ移転することになった。ヨルダン国王は生涯アラファトを許さなかった。

 1990年代に入ると和平ムードが高まり、ヨルダンはイスラエルと平和条約を結んだ。これ以降、ヨルダンは特段の紛争は起こっていない。

ヨルダンの地政学

 これらの経緯が示す通り、ヨルダンはイスラエルの敵国どころか同盟国と言っても良いくらいである。国民感情としてイスラエルを憎悪しているかもしれないが、地政学的には両国は切っても切れない関係にある。いわば日韓関係を100倍こじらせたようなものだ。

 建国当初からヨルダンとイスラエルは協力関係にあった。どちらもパレスチナやシリアといった「敵」を共有していたからだ。ヨルダンは人口が少なく、西側からの財政支援に依存している。この点もイスラエルと同様だ。敵と味方を共有する両国は相性の良いパートナーである。さらにいうと多数のパレスチナ人を抑圧して国家運営がなされているという点でも両者は類似性が高い。ヨルダンのパレスチナ人は特にひどい目にあっているわけではないが、ヨルダン王政にとって常に潜在的な脅威であることは間違いない。ヨルダン川を挟んで向かい合う両国は鏡合わせのような関係なのである。

 だからイスラエルとヨルダンは脆弱な国境で接していても、決して戦争が起きることはない。むしろ両国は協力してパレスチナ人を西岸に封じ込めている。ヨルダンがイスラエルに反発することは多いが、その多くはイスラエルがヨルダンの献身に報いていないという内容だ。せっかくパレスチナ人の受け入れ先になってやっているのに何だこの態度はという話である。トランプ大統領の提案したガザ住民のヨルダン移送は典型例だ。

 ヨルダンが外部勢力に侵略される可能性はない。イスラエルがそれを許さないからだ。イスラエルにとってヨルダンは外套だ。この国がなければイスラエルの心臓部を守ることはできない。イランやその他の敵対勢力がヨルダンに勢力を伸ばそうとすれば、イスラエルは全面戦争を仕掛けてもおかしくない。

 だからといってヨルダンがイスラエルの完全な支配下に置かれているわけではないし、国内にイスラエル軍の拠点があるわけではない。したがって、ヨルダンは緩衝国としての価値がある。アラブ諸国はヨルダンのお陰でイスラエルと国境を接しなくて済む。ヨルダンはただ存在するだけで周辺諸国の利益になるということである。

何故ここだけ平和なのか?

 当初の疑問に戻ろう。ヨルダンは肥沃な三日月地帯に位置しながら、何故ここだけ平和なのだろうか?

 理由はいくつか考えられる。ヨルダンは周囲を砂漠に囲まれており、見た目よりも孤立している。ヨルダンの存在は周辺諸国にとって利益になっており、イスラエルはヨルダンの安全を保証する用意がある。西側としても安定したヨルダン国家は意味のある存在だ。また、ヨルダンは全く石油を算出しないため、資源絡みも抗争に巻き込まれることもない。

 だが、ヨルダン王政の英明な統治も理由として欠かすことができないだろう。ヨルダン王政にとってパレスチナ人は深刻な脅威だが、彼らを抑圧しているわけではなく、むしろ市民権を積極的に与え、国民として統合しようとしている。イスラエルを憎悪するイスラム世界の世論には形だけは配慮し続けている。王権が強いとはいえ、絶対王政というわけではなく、議会制度も整っている。

 ヨルダンの平穏が今後も続くかはわからない。依然としてヨルダン国家が火種を抱えているという構造は変わらない。国民のうち生粋のヨルダン人は一部であり、大半はパレスチナ系だ。これにポスト冷戦期に周辺から流入した大量の難民が加わっている。ヨルダン王政がもし倒れれば今後も安定するとは限らないだろう。イラクやシリアのような混乱状態が発生すればイスラエルは確実に介入するだろうし、地域全体を巻き込んだ大戦争になる恐れもある。ガザで起きたような悲惨な流血沙汰が起こる可能性もゼロとは言えない。だがそんなシナリオは誰も見たくないので、ヨルダン王政には存続してもらいたいはずだ。ヨルダンは緩衝国の中では最も成功した部類の国であり、地域みんなの願いが込められた存在なのである。

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