小説『ハチゼロ太陽』(上)
これやこの 行くも帰るも 別れては
知るも知らぬも 逢坂の関
「この歌の作者はセミマルって人らしいよ、なんか可愛らしい名前だよね」
伊織ちゃんがかるた札をわたしに見せながら説明してくれる。伊織ちゃんに語りかけられたわたしは札に描かれているお爺さんを見る。「セミマル……」と呟きながら、変な帽子かぶってるけど確かに可愛い名前ではあるかも、と思う。わたしにはかるたの魅力がイマイチ分からないでいるけれども、伊織ちゃんは高校に入る前からかるたに魅了されていて、桜丘西高校のかるた部に入るために受験勉強を頑張っていた。「桜丘西のかるた部に入りたい」というのが伊織ちゃんの口癖だった。桜丘西は地元にある公立高校で、かるたに詳しくないわたしでも知っているくらいの、競技かるた部強豪校なのだ。
伊織ちゃんとわたしはお互い別の高校に進学した。わたしは横浜にある私立の高校に入学したのだ。横浜といえば、この地域からすれば都会であった。「都会」に対する憧れと、女子校という特別感に魅せられて、推薦入試であっさりと決めてしまった。それにわたしは、受験勉強なんて面倒くさいと思っていた。でもそれは勉強から逃げるための言い訳で、本当は努力をしたにもかかわらず、失敗してしまうのが怖かった。受験に落ちて、「勉強ができない子」というレッテルを貼られるのは嫌だ。受験に失敗したところで、そんなレッテルを貼られるなんてことはないだろうけど、でも「勉強のできない子」として見られてしまうのはどう考えてもごめんだ。
私たちの家は小道を挟んで向かい側にあるので、幼稚園から中学校までずっと一緒に通っていた。当たり前のように一緒に居たけれども、離れてしまうことを少し寂しく感じる。
伊織ちゃんのかるた部への熱意は受験期と変わらずであった。まずは百首を覚えなければならないとかいう彼女のために、彼女の家に来たのだ。入学式を終えた彼女がわたしを呼びつけた。伊織ちゃんは今日入学式を終え、明日から授業が始まるらしい。わたしは明後日に入学式を控えていた。まだ暇といえば暇なのである。
新しい制服を身に纏う彼女は、なんだか別の世界の住人のようだった。桜丘西の制服はブレーザーで、女子はスカートだけでなくスラックスも選ぶことができる。伊織ちゃんはスカートとスラックスをどちらも買っていた。クローゼットを開ける伊織ちゃんの腕の隙間から、桜丘西のスラックスが見えたのだ。
「伊織ちゃん、制服……スカートだけじゃなくてスラックスも買ったの?」
「ああ、そうだよ。スラックスもなんかカッコいいなって思って。買ってる人全然いなかったんだけどね。でも動きやすいし、便利そうだなあって」
スラックスって、性別に違和感を持ってる人が買うものかと思ってた。確かに便利そうだなと思い直すけれども、伊織ちゃんは女の子だ。幼稚園の頃はピンク色が好きだったし、わたしと一緒に絵を描いたりおままごともした。小学校のときはシール交換に勤しんだ。そんな伊織ちゃんがスラックスを買っている事実を、わたしはまだ受け入れられていなかった。中学生の頃はわたしが買ったヘアアレンジの本を見ながら、髪を結い合ったりもしていた。伊織ちゃんの長くてつやつやな髪の毛は、わたしにとって宝物だった。彼女の髪に触れているときの指通りの滑らかな感触をいつでも思い出すことができるくらいに。そんなわたしの気持ちも知らずに、伊織ちゃんは髪をばっさりと切ってしまった。
「心機一転、高校生活頑張りたいんだ。何か吹っ切れるかなって思って、髪の毛切っちゃった」
そう言ってはにかみながら、短くなった髪の毛を触る。嬉しそうに笑う伊織ちゃんがとても眩しくて憎らしかった。
どんどんわたしと同じ生活ではなくなってしまう彼女を眺めて、言葉にし難いもどかしさを感じる。
「競技かるたって楽しいの?高校生活も張り切っちゃって、ばかみたい」
つい口から溢れてしまった。冗談めかして言うつもりが、トゲのある口調になってしまった。伊織ちゃんはかるたを楽しんでいるのだから、こんな言葉言っちゃだめだ。そのくらいのこと分かっているのに、言わずにはいられなかた。
「え?」
伊織ちゃんは少し驚き、戸惑っていた。わたしがついうっかり口にしてしまったのが悪いのだ。
伊織ちゃんはどこまでも素直で無垢なのだ。なんでわたしは伊織ちゃんみたいになれないのだろう。未来に希望を抱いている彼女が気に入らない。
伊織ちゃんの眩しさが憎い。伊織ちゃんを夢中にさせる競技かるたなんて、無くなってしまえばいいのに。
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