座右の銘
勇気を出したいとき、心が落ち込んだときに、拠り所としている言葉がある。
「志あるところに道あり」
その言葉は、高校の時に恩師からもらった言葉だ。達筆な字で書かれた紙をいただいた。たしか、テストで一番の高得点を出した時にもらったものである。その先生は、決して派手な指導をする方ではなかったが、生徒一人一人の努力を静かに見守り、必要なときに力強い言葉をくれる、そんな方だった。先生のおかげで、私は勉強が好きになり、今の私へと導いてくれた恩人だと思っている。
また、この言葉は、アメリカ第16代大統領エイブラハム・リンカーンが演説で引用したことで有名になった。
「何か目標を持ってそこに向かうとき、志さえ持っていればいつか必ず道が開ける」
一般的にはそう解釈される。
しかし、意志を持つというのは必ずしも同じ意志でなくても良い。志は変わってもいいし、むしろ変わるべき時もある。
というのも、目標を持ったとしてもそれが途中で加筆修正、もしくは訂正、削除されるからだ。加筆修正は、当初の目標をさらにグレードアップさせるものであり、善とされる。しかし訂正や削除は目標を完全に変えてしまうということだ。
では訂正や削除は悪なのか。
道が失敗に向かっている時は訂正・削除すべきでなるべく早く気づくべきだ。間違った方向に志を持っていても道は開けない。
すなわち、道というのは、己の人生の中でより正しい道を切り開くための志であり、短期的な目標の志とは捉えていない。
切り開いていく道を何度も何度も加筆修正、訂正、削除、そして新たに立てていくことで、切り開いて行けるものであると考えている。
重要なのは、「その時々の自分にとって正しいと思える道を選び続ける」こと。それこそが「志あるところに道あり」の真の意味ではないか。
だからこそ、今の時点で、どんな道が切り開けるかなど到底分からないが、漠然とした人生目標に向かって志を持ち、その道の枝分かれで迷いに迷って、ゴールに近づけたらそれでいい。
道を歩いているとき、転んでしまうたびに傷ができてしまい、その体は傷だらけになっているかもしれない。しばらく立ち上がれないこともあるかもしれない。もう歩きたくなくなるかもしれない。そんな不安はいくらでも付きまとう。道が切り開けるかなんて分からない。志なんて持ち続けられないかもしれない。
そんな時は、一旦、木陰のベンチで休もう。その時に周りの景色を見渡してみよう。木漏れ日の中、道端に咲いている綺麗な花に気付けるかもしれない。風が葉を揺らし、その影が地面に踊る様子を楽しめるかもしれない。いつも見ていた風景が、新しく見えてくるかもしれない。傷が癒えてきたら、体力が戻ってきたら、また歩き出せばいいのだから。
自分のペースで、歩き出せばいい。迷ったり立ち止まったりしてもいい。大切なのは、再び歩き出そうとするその気持ちだ。
そのような意味も含めて、「志あれば道あり」を解釈したい。
O.N