プラトン/三嶋輝夫訳『ゴルギアス』(講談社学術文庫、2023年)を読んで。
古典は様々に訳される。たとえ同じ作品の翻訳だとしても、全く違った印象を抱くということさえあるのではないだろうか。プラトンのゴルギアスはまさにそのような著作の一つである。最初に読んだ藤沢令夫訳では、完膚(かんぷ)なきまでに論破されしどろもどろになるポロスとカリクレスの姿が、次に読んだ加来彰俊訳では、実にアイロニカルに問い詰めるちょっと嫌味な感じのするソクラテスの姿が印象に残る。そして今回の三嶋輝夫訳では、それぞれの登場人物が対等な立場から一つひとつの言葉の内実を確かめていく様子が印象に残った。
自堕落という言葉がある。従来、「放埒」と訳されてきたアコラシアを新版アリストテレス全集のニコマコス倫理学で神崎繁訳は「自堕落」と訳したのである。アンソニー・ケニーの英訳ではself-indulgentと訳されており、自堕落という訳語は読者の心にぐさっと刺さるものであり、翻訳の妙と言えよう。アリストテレスのニコマコス倫理学においてアコラシアは節制の徳と対置され、アコラストスな人は倫理的な考察の対象外とされている。アコラシアの言葉の意味そのものは、コラコス(しつけ、懲らしめ)に否定辞のアがついたもので、「不躾」や失礼な人をも想起させ、やりたい放題な人のことを指している。その内実は理性的な反省や葛藤なしに欲望に従う人のことであり、時に獣的な非理性的存在者としてさえ扱われている。自堕落も放埒も、私たちの欲望との向き合い方を内と外から考えさせる訳語であると言えよう。
なぜ自堕落に言及したかといえば、ゴルギアスに登場するカリクレスがその典型に思われるからである。アリストテレスが考察の対象から外して放っておくべきとさえ見做している節のある種類の人々と粘り強く関わろうとするソクラテスの、あるいはそれを描き出すプラトンの強い意志をそこに感じるのである。そのことに気づいたときは、一見すべての人へと開かれた人間主義でありながら理性的動物の一線を引いて倫理的考察の対象外とするアリストテレスに比して、どこまでも理想を追い求めるプラトンの姿に気づき、感動を禁じ得なかった。
ゴルギアス篇は問いかけの多い対話篇である。カリクレスをして「人々が思っていながら口に出さないことをよくぞ言ってくれた」とソクラテスに言わしめたその言葉は、あるいは私たちが抱いているものかもしれない。不正に僭主となったアルケラオスを幸福だと見なすポロスのことを果たして読者である私たちは一笑に付すことができるのだろうか。いくつかの翻訳を読み比べて立ち上がる語り手たちの姿の、どこに私たち自身を見出すのか、容易にソクラテスに同調して安住させてはくれないところにプラトンの創造性が表れているのではないだろうか。
三嶋輝夫訳は、それまでの翻訳の成果を参照しながらも堅実な文体で中立的に訳そうとしていることが印象的である。細部に亘って対話篇を味わわせてくれる訳文はそれぞれの登場人物のアンビバレントな議論の道行きを伺わせてくれるものである。ゴルギアスを精読しようと思う読者はぜひとも手に入れておきたい一冊である。