田中美知太郎『戦争と平和』(中公文庫、2024年)を読んで。

 私たちは戦争の時代を生きているのかもしれない。いま私たちの生活が直接に脅かされるという現実を目の当たりにしていなくとも、いつこの生活がなくなるとも知れないことを、各地で起こっている戦争の出来事を通してふと思わされるのである。田中美知太郎のエッセイ集『戦争と平和』を読んでいてその感をますます強くした。この本は昭和の保守の論客として知られていた田中美知太郎の姿を垣間見させてくれる一冊である。田中美知太郎の文章はエッセイであれ、講演であれ、古典研究であれ、読者をはっとさせる哲学的洞察に満ちている。本書もまた、時事的な内容を掘り下げていきながら、読者の思考を揺さぶる一冊である。
 本書には、こんな一節がある。「戦前においては、ぜいたくな積極的意味の国防問題はあったけれども、今日のわれわれが当面しているような安全保障の問題はなかったと言っていいだろう」(本書336頁)。この言葉に突然、はっとさせられた。というのも「ぜいたくな」という形容詞が付いていたからである。平和の実現についての省察を積み重ねていく文脈で語られたこの一言は、私たちが過ごす日々がいかなるものに基づいているのかを考えさせるものである。これを田中美知太郎は、ある種のまとめとして書き記しているのであり、どういう意味であるかは説明していない。しかしこの文章は読者に問いかけを残し、それまでに著者の記した言葉の意味を改めて考えたり、あるいは読者自らの現実と照らし合わせて考えさせることを促す一節なのである。歴史認識をめぐって実(じつ)のない言葉のやり取りが現在も繰り返されているように思われる。しかし言葉をどのように受け止めるべきか、そのことを考えさせてくれる本書は、実のある言葉のやり取りを求める人に確かな手応えを与えてくれるものである。
 本書には、終戦直前の折に発表中止となった原稿が幾つか含まれている。田中美知太郎のこれらの文章が発表されなかったことの意味を考えさせられる。それはあるいはソクラテスのことを何としても守ろうとしたクリトン、あるいはプラトンのことを思い出させるかもしれない。本書に採録された、そのような文章の一つ「ソクラテスの場合」は愛国心をめぐるものであるが、これ以上にない仕方でクリトンの根本問題を闡明し、プラトンが対話篇で自らの言葉に託した政治的理想を思わせるものである。戦時にあってソクラテスその人も、不正に加担しないがために当時の民主政権に異を唱えて自らの命を危険に晒し、そのことを次の寡頭政権において追及されたが、その政権の崩壊という時のいたずらによって生き延びた(プラトン「ソクラテスの弁明」32e参照)。田中美知太郎の著作もまた、この時にこの書き手の命が途絶えていたなら私たちは今とは全く違った世界を生きていたことであろう。時代の空気を纏いながらも直截に事柄の根本を問い詰めていくその言葉はその人が希代の哲学者であることをありありと示しているのである。

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